01-02
◇
もし「校内でいちばん指が綺麗な男子は」と問われたなら、迷わず「トンボだ」と答える。
そういうマニアックなランキングをつけたがる人間がいるのかどうかはさておき、彼の指はおそろしく綺麗だった。
ともすれば女性か、女性的な男性に見まごうほどに。
全身を見れば身長や骨格から性別が分かるが、指だけを見ると手の大きな女みたいに見えた。
顔つきも整っているが、中性的というよりは男性的な整い方をしている。
運動と勉強は並よりちょっと上程度で、容姿と誠実でとっつきやすい性格が相まって人望も篤い。
彼の指を見るたびに、ひょっとしたら人柄というものは指にも出るのかもしれないと真剣に思う。
彼は正直で、潔白で、おおよそ罪悪というものに縁がない。少なくともそういうふうに見える。
もちろんトンボだって失敗はする。間違ったことも言う。けれどそれは別に悪いことではない。
俺とトンボは同じ部活に所属している。小学校の頃からずっと一緒のクラスだ。
そういう面だけ見れば、トンボと俺はかなり長い付き合いになる。だが、あくまでそれは表面上の話だ。
毎日のように顔を合わせているにも関わらず、俺は彼と三回しか話をしたことがない。
会話とも呼べないような会話ならもっとあっただろうが、一対一の会話は三回だけだ。
それは俺とトンボの関係が特別に険悪だったからというわけじゃない。
仲が良くないクラスメイトとの関係なんてそんなものだし、一対一で会話をする機会なんて、仲が良くてもそうそうない。
もともと俺は社交的な方ではないから、自分から誰かに話しかけたりしないし、トンボは来るものは拒まないが来ないものは呼ばない。去るものも追わない。
相性の問題だ。お互い嫌いあっているわけではない。けれど話すことが少ない。そういう関係が確かにある。
三回のうちの一回は今の学校に上がってから。今年の四月くらいのことだ。
トンボが同じ部に入ったことに気付いて、俺が挨拶のつもりで話しかけると、彼は気まずげに微笑した。
眉をひそめながら口角を釣り上げた表情は、そう見せるつもりはなかっただろうが、どこか蔑むようにも見えた。
お前がこんな部に入るなんて意外だと言うと、今度は自然な微笑を浮かべ、
「そっちは別に意外じゃないね」
と言った。
その言葉になぜか気分がよくなって、俺は話を続けた。
「どうして入ろうと思ったんだ?」
「たぶんそっちと一緒だよ」
「一緒って?」
「ときどきはね、じっくり休める時間が欲しかったんだ」
俺はこの言葉にかなり驚いた。
これでは普段は休めていない、くつろげでいない、と言ったも同然だ。
"品行方正な"トンボが自然なものではないことを認めるのと変わらない。
「意外だ」と口に出すと、彼は照れくさそうに笑って、「そうでもないだろ」と言った。
たしかに、そうでもない。
子供時代から品行方正だったトンボの本心を、俺は以前からかなり疑わしく思っていた。
もちろん、俺がそう感じていただけなのだが、彼の仕草は、どうも意識的に"いいひと"であろうとしているように見えた。
悪いことではないので、そのことでトンボを嫌ったりはしなかったが、彼自身はかなり無理をしていたのだろうか。
どれだけ善人であろうと、どれだけ品行方正であろうと、どれほど理路整然としていても、必ず誰かには嫌われる。
トンボほどの人間でもそれは変わらない。
ある程度の努力を、ある程度の時間払い続ければ、ある程度の願いは叶う。
そうしてトンボは善人になった。その結果、何を得たかったのかは分からない。
それでも嫌われることはある。努力の限界だ。
ひょっとしたら、そういうことが嫌になったのかもしれないと俺は思った。もちろん憶測でしかなかったが、たいして外れてもいないだろう。
「なんだか嫌な気持ちになってきた」
トンボは独り言のように言った。
「なにが?」
「自分が」
彼がなぜこんなことを話す気になったのか、俺にはまったくわからなかった。
「どうして?」
「あんまり説明したくない」
俺は不意に思いついて疑問を投げかけた。
「ねえ、お前ってさ、人を嫌いになったこと、ある?」
トンボはほとんど表情を変えずに答えた。
「あまりない。そういうことは考えないようにしているし、考えそうになっても言葉としてまとまらないように自制してる」
「そうなんだ」
やっぱり、と言いかけたがやめておいた。
気疲れしそうな生き方だと、そのときの俺は思ったものだ。
◇
トンボは「ときどきは休みたかった」と言った。「そっちと一緒だよ」とも言った。
でも、俺は別に休みたくはなかった。休むというなら最初から最後まで休んでいたし、それで困っていなかった。
だから、彼の言葉は、本当は少しだけ的外れだったのだ。
俺とトンボが入部した自然科学部は、部活動強制所属のうちの学校で、活力のない学生が生き残るための受け皿だ。
現在の部員数は五名。そのうち男子が三名、女子は二名。
三年の"ハカセ"が部長をやっている。彼も同じ小学校出身で、昔はよく遊んだりもした。
もちろん、長い空白期間を挟んだあとでは、ただの先輩となってしまったのだが。
自然科学部の活動は至ってシンプルだ。
何もしない。
部員たちは好きなように過ごす。話をしてもいいし、話をしなくてもいいし、何かしてもいいし、何もしなくてもいい。
ただ、週に一度、水曜日に必ず部室を訪れ、下校時刻までぼんやりと過ごせばいい。
活動の成果を求められることはないし、顧問もめったに部室に出てこない。
ただぼんやりと過ごす。これはなかなかの苦行だ。
他の人間は、熱心に部活動に打ち込んだり、勉強に励んだり、あるいは友人関係や恋愛に夢中になったりしている。
そんな有意義な時間の過ごし方を外側からぼんやりと見ていると、強い不安や焦燥に駆られる。
「このままでいいのか?」
「何もしなくてもいいのか?」
「本当にいいのか?」
現に、今年の春、俺たちと同時期に自然科学部に入部した男子は、一ヵ月もしないうちにやめてしまった。
あるいは沈黙続きの部室に居続けることを苦にしたのかもしれない。真相は分からない。
「無意義に過ごす」を自覚的に行うのは、なかなかに難しいところがある。
◇
俺は校舎の屋上に寝転がっていた。太陽が燦々と輝き、空は青く、遥かまで澄んでいる。
下の階でどこかのクラスが音楽の授業をしているのだろう、合唱曲の歌声がぼんやりと聞こえた。
屋上にいるのが好きだった。一日中ずっと寝そべっていてもいいくらいだ。
雨が降ってもきっと気にならない。それくらい、俺にとって屋上は特別なスペースだ。
どうしてこんなに安心するのだろうと、何度も考えたことがある。
その結果、この場所のいくつかの特徴がそう感じさせるのだろうと納得した。
屋上という場所はかなり特殊だ。
"屋内"ではないが、"屋外"でもない。限りなく開かれているにも関わらず、ここからはどこにも向かえない。
この開かれ閉ざされた空間に、俺は不思議なほどの安堵を抱く。いつからそうなったのかは思い出せない。
とにかく俺にとって、屋上はそういう空間だ。この場所でだけ、俺は安らぐことができる。……静かに眠ることができる。
この"外"でもなく"内"でもない場所でこそ。
ここにいる限り、俺はずっとひとりきりだ。孤独というものはある種の安心を伴う。
闖入者がいるとすれば――おそらくは、鳥か虫か。あるいは、もっと別な何かだけだろう。
"スズメ"はたぶん、そういう存在だ。そんなことを真剣に考える。
俺の心を読んだわけでもないだろうが、スズメは屋上の鉄扉をくぐった瞬間、こちらに向けて声を掛けた。
柔らかな風に長い髪が揺れる。無造作に広がった髪と風に揺れる制服。彼女の姿は何かの映画の主人公のようにすら見えた。
「どんな具合?」とスズメは笑った。
「至って快適だよ」と俺は答えた。
「ずっとここに居てもいいくらいだ」
「本当に?」
「……本当に」
彼女は透き通った笑みを浮かべた。俺の言葉に反応したわけではないだろう。いつもこうだ。
彼女と話をすることは、鏡と話すことと似ている。
彼女から何かを言ってくることはない。こちらの話をちゃんと聞いているのかだって怪しい。
それでも俺は、スズメに対して可能なかぎり正直であることを心掛けている。
なぜだったかは忘れてしまった。……近頃はずっとこうだ。自分がいつから屋上にいるのかさえ判然としない。分からないことが多すぎる。
俺は立ち上がって、制服を叩いて埃を落とした。
「もう行くの?」
スズメは表情を変えずに行った。もし俺以外の人間が見たなら、彼女のこの態度を不気味にさえ思うかもしれない。
実際、俺自身も、彼女を空恐ろしく感じることがある。何の感情も示されていないような表情は、マネキンが動いているようで、ひどく無機質だ。
「いや」
それでも、すぐにこの場を離れる気にはなれなかった。
気分は穏やかだった。朝、まどろんだまま布団にくるまっているときのようだ。
あとちょっとだけだ、と俺は思った。
あとちょっとだけだから、ここに居てもいいだろう?
◇
もちろん、そんなふうに面倒なことを先送りしていると、物事はさらに面倒になっていく。
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