キアスマスリポート
へーるしゃむ
01-01
「もうやめたくなりましたか?」
と後輩の声がした。咄嗟に反応できず彼女の顔を見返すと、ひどく不安そうな表情をしている。
最初に視界に入ったのは緑色のフェンスと、その向こうの道路、そこに舞う桜の花びらだった。
俺たちふたりは、どうやら一緒に昼食をとっていたらしい。
後輩の膝の上にはコンビニのレジ袋が置かれていて、彼女はその中からサンドイッチを取り出しているところだった。
何の話をしていたのかは思い出せない。彼女の切羽詰まった表情を見るに、大事な話をしていたのかもしれない。
俺は一瞬とまどったが、それでも思い出せないものは仕方がないと割り切り、適当にごまかすことを決めた。
「いや」
曖昧に返事をすると、後輩は眉間に皺を寄せる。怒るというよりは訝るような仕草だ。何かしくじったのかと考えたが、それならそれで構わない。
適当にごまかしておけば、大抵のことは問題にならない。要するに、どれだけ上手にごまかすかが問題なのだ。
いつでもどこでも、変わらない。
彼女は諦めたように視線を落とし、サンドイッチを口に運ぶ。
その様子を横目で警戒しながら、俺は周囲をうかがった。
場所はおそらく、うちの学校の体育館裏だろう。大きな切り株があって、俺と後輩はそれを椅子代わりにしていた。
この場所でこんなふうに昼食を共にすることがあった。この日もそうだったということだろう。
敷地を示すフェンスがすぐ傍にあって、その向こうは道路に面していた。
俺は舌打ちをしたい気持ちをこらえ、道路に舞う花びらに目を向ける。
付近に視線を巡らせると、やはり桜が咲いていた。枝を疎ましいほど広げ、花びらを路面に汚らしくまき散らしている。
どうやら春らしい。こんなことは初めてだった。
度を越えた驚きは、衝撃よりも呆れや可笑しさをもたらすものだが、俺は笑うに笑えない。もはや慣れてしまったということもある。
後輩は何も言わなかった。何かに気付いた様子はない。
結局はそういうことだ。俺が何かを忘れても、見失っても、誰も困らないのだ。
外側さえ取り繕ってしまえば、誰も中身の変化なんて気に掛けない。そういうことがこの世にはごまんとあるらしい。
今度は春か、と俺は思った。さっきまでは夏だった。……いや、九月だったから、秋だろうか? 夏休みが終わった直後だから、まだ夏かもしれない。
まぁ、九月が夏だろうと秋だろうと、どちらでもかまわない。いずれにせよ、ついさっきまでは九月だったことには変わりない。
ここ最近――六月の半ば過ぎから九月上旬まで――の俺には、こういうことがよくあった。
時間の流れが、"現在"から、まったく別の季節、日、時間へと入れ替わってしまうのだ。
後輩に話し掛けられる直前まで、俺は九月八日土曜日にいた。桜はとっくに散っているどころか、葉桜も盛りを終えている。
それにも関わらず、ここには桜が咲いているのだから、今は九月八日とはまったく違う日なのだろう。こういうことが三日に一度は起こった。
はじめは一日、二日のズレで、おかしいなと思いながらも気のせいだと忘れていたのだが、週単位、月単位で"ズレ"るとさすがに気付かずにはいられない。
七月から六月へ、八月から九月へ、そして今回、九月から四月へ。俺の意識は突然、過去の経験とも未来の映像ともつかない場所に迷い込んでしまう。
記憶と記憶とのつながりが混線しているようで、その行き来は無秩序で唐突だ。
現実にあったことか、と言われると、経験した覚えはない。では未来かというと、過ぎてみても"ズレ"で見たことが必ずしも実際に起こったわけでもない。
もちろん符合するときもあったが、ただの偶然と受けとめたほうがよほど自然だ。
ただの白昼夢であると考えるのがいちばん自然だが、それはそれで困ったことになる。
俺の中には、
「これは夢ではない」
というたしかな確信があった。もちろん自分自身の確信なんて根拠のあるものではない。疑わしく思うところもある。
けれど、
「これは現実ではない」
ということにするには、この"ズレ"はあまりに現実味がありすぎた。ほとんど(まったくと言ってもいい)現実と変わらない手触りなのだ。
これを「現実ではない」ことにしてしまうと、今度は、どこまでが現実で、どこからが現実でないか、その区別がつかなくなってしまう。
人は「ここまでが現実で、ここからが空想である」という区別を失っても生きていけるものだろうか?
不可能ではないが、困難ではあるだろう。
だからこそ、俺はこの"ズレ"を現実の一部だと信じざるを得ない。
そうしなければ現実の自明性が失われ、この"現実"よりもっとおそろしいどこかに引きずり込まれてしまうような気がした。
世の中に不思議なことはありふれているが、それも話で聞くのと自分の身に降りかかるのでは話がまったく違う。
最初は何が起こっているのかと不安に思ったものだが、何度も繰り返しているうちに慣れてきた。
より正確に言えば、気付いたのだ。この"ズレ"が何かをもたらすものではないということに。
一ヵ月先に行ったところで、一ヵ月前に行ったところで、どこにもいかなかったとして、何の問題もない。
俺がやることは、いつでもどこでも、変わらず同じ。周囲に適当に合わせればいい。
別に相手の話をすべて聞くこともない。仮に何かを勘付かれて、怒らせたり悲しませたりしても、それだけの問題だ。
この"ズレ"があろうがなかろうが、俺は誰かを怒らせるだろうし、悲しませるだろう。
どちらにしても変わりない。
幸いにもこの"ズレ"は少し時間が経てば収まり、俺は元いた時間に戻れる。
やり過ごせばいいのだ。やはり、現実と変わらない。
ただ、周囲に合わせる。適当にごまかす。可能な限り上手に。失敗しても、またごまかせばいい。
そうすることの何が悪いんだ?
誰かが俺に話しかけるとしても、それはマネキンに話しかけるようなものだ。答えを期待されているわけじゃない。
俺の返事が上辺だけだろうと本心だろうと、聞く相手は都合の良い方がうれしいのだから、せいぜい相手に都合の良いように返事をすればいい。
可能なかぎり上手に、矛盾がないように。
それで十分なのだ、俺以外の人間にとっては。
不意に、隣に座る後輩が顔を上げた。俺は面食らってのけぞる。
彼女は懇願するような表情で、「大丈夫ですよ」と言った。
「忘れないでください」
俺の頭には一抹の罪悪感がよぎったが、それも一瞬だけだった。
もはや、自分の中からは、さまざまなものが失われつつある。そのことを強く感じた。
そして俺自身でさえも、もう何もかも失くして空っぽになってしまいたいと思っているのだ。
もう、うんざりだ。こんな場所に居続けることは、もう無理だ。
ここにはもう居たくない。楽になりたい。消えてなくなってしまいたい。
いつまでこんな、果てのない砂漠のような場所を孤独に歩き続ければいいんだろう?
喉の渇きはいくら歩いたところで満たされるわけがないとわかっているのに、なぜ歩き続けなければならないんだろう?
熱砂に沈み、干からびるのを待つ方がよほど理性的だ。
どうせ何もかもが過ぎ去っていくだけのものなのに。
こんな生活がいつまで続くというのだろう。
「大丈夫」と俺は嘘をついた。
「何の問題もないんだ」
これは本当だ。何の問題もない。期待には応えてやればいい。答えられないなら、せめて、見破られない嘘をついてやればいい。
それだけだ。それ以上のことは、何ひとつ期待されていない。ただそれだけのことだ。
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