第10話 速水と綾坂の邂逅


 速水蛍の腹の上に乗り上げ、不敵な笑みを浮かべる綾坂蛍が速水に向かって手を伸ばしている。


 その姿が、速水の中であの雨の日の綾坂の姿と重なった。


 被り物の中で速水が目を見開く。


 どこか遠くで雨音が聞こえた気がした。





 速水蛍と綾坂蛍が出会ったのは、ある雨の日の事である。




***




 速水蛍という男は、彼の通う中学校とその周囲の学校では名の知れた問題児だった。


 平均よりとびぬけた身長と鍛え上げられた肉体。そして彼の中学生らしからぬ鋭い目つきは人々に畏怖の念を抱かせた。年齢不相応の見た目に素っ気ない態度のせいで、速水は年齢関係なく、数多の人間に絡まれ、喧嘩を売られた。


 しかし、速水は喧嘩が強かった。無自覚ではあったが。


 速水にとっては繰り出された攻撃を見切り、拳を突き出すだけで相手が倒れるだけだったのだ。それゆえに、相手が弱いだけだと思い込んでいた。


 速水に喧嘩を挑んで勝った者は誰もいなかった。戦いを挑んだ者たちは皆一様に体中を腫らして病院に担ぎ込まれたこともあり、速水は周囲から腫物に触るように扱われていた。その上、様々な噂が一人歩きをしていったために、

「速水に近づけば殺される」

 と、さえ思われていた。


 速水の見た目や噂のこともあり、速水の周りには人が集まらず、速水は何時だって一人だった。


 厳つい外見に反して繊細な中身を持っていた速水は孤独を強いられる状況に当然傷ついた。周りの者たちからの偏見と一人歩きする噂。好奇、嫌悪の様々な視線と悪意が混じった言葉。それらにより、速水の心は削り削られ、中学三年の頃にはすっかり不良の仲間入りを果たしていた。


 そんなグレていた速水蛍に真っ直ぐぶつかっていったのが、綾坂蛍という少女だった。


 綾坂は速水が通う中学校に三年生の頃に転校してきた。陶器のような美しい白い肌に、艶のあるまっすぐな紫がかった黒髪をハーフアップにし、アメジストを埋め込んだかのような瞳を持つ綾坂は、人の目を引き付けた。彼女の容姿は十人中十人が「美しい」と答えるほどのものであったのだ。彼女の姿を目に入れたものは必ず彼女に目を奪われる。嫉妬や妬みの視線もあったが、彼女の皆に平等に接する態度を見て何も言えなかった。


 転校してすぐに学校一の美女と謳われるようになった綾坂は自身の容姿には驚くほど無頓着だった。どんなに美貌を褒められようとも軽い言葉で流し、即座に会話を違う方向に運ぶのだった。




 そんな学校一の美女の綾坂蛍と学校一の問題児の速水蛍が出会ったのは、意外にも雨の日の路地裏だった。




***




 その日も速水は売られた喧嘩を買い、相手を倒した。しかし、相手は大人数だったために、速水はあちこちに拳を受け、怪我を負ってしまったのだった。怪我をしたと知られたくなかった速水は咄嗟に路地裏に身を隠し、雨に濡れていた。


 帰るのさえ億劫になっていて、何もかもを放り出したい気分に見舞われた速水は路地裏に寝そべった。目をつぶり、雨音を堪能する。


 すると速水の上半身にかかっていた雨だけ止んだ。


「地面に寝るのはナンセンスよ」


 感情の籠っていない声が速水の上に落ちてくる。


 目を開けるとこちらに傘を傾けながら立っている少女がいた。


 彼女こそが綾坂蛍だった。


 綾坂は自身が濡れることも厭わずに速水に傘を傾けて立っていた。


 速水は目を開け、立っている綾坂を視界に入れたとたん、即座に首を横にしてから瞼を下ろし、視界から綾坂を消した。


「……スカートのくせに転がる男の近くに立つなよ」


 弱弱しい声が速水の口から落ちる。雨音にかき消されそうなほどに小さな声だったにも関わらず、綾坂は聞き取り、自身の目を見開いた。


 寝そべる速水に立つ綾坂。学校の制服を身に纏っている彼女はもちろんスカートをはいているわけで。速水からは彼女のスカートの中がしっかりと見えてしまっていた。


 白のレースだったと記しておこう。何がとは言わないが。


 そう言われてもなお、綾坂が速水の近くから離れることはなかった。立ったまま、速水を見下ろす体勢で動く気配はない。


 傘がより、速水の方へと向けられる。


「なあ、聞いてんの? 耳ついてる?」

「聞いているし、耳もついているわ」

「じゃあどっかいけよ。その格好のまま俺の近くに立つな」

「ふ~ん……、なら立たなければいいのかしら?」

「…………」


 雨音に布がこすれる音が混じる。


 速水は目を開けなかった。


「ねえ、」

「…………」

「ねえっつたら」

「…………」


 しつこく声をかけてくる綾坂のことを完全に無視する。


 すると速水の体の上におもりが降ってきた。先ほど喧嘩の時に殴られた箇所がチクリと痛みを訴える。


 驚愕のあまり、速水は瞼を開ける。


 そこには自身の腹の上に馬乗りになっている綾坂がいた。彼女は器用に自身の肩に傘をかけた状態で速水の腹の上にいた。


「いやいやいやいやっ」

「どうしたのかしら? イヤイヤ期はとっくに過ぎたでしょう?」

「駄々じゃねぇよ!! てか、おまっ、なんで人の腹に、」

「私の声掛けを無視するからよ。声をかけたらちゃんと返事をしなさい。私に失礼よ」

「人の腹に無許可で跨るお前の方が失礼だ!! さっさと降りろぉ!!」

「五月蠅い口ね。綴じてしまおうかしら」

「糞野郎ぉっ!! なにひゅんはよ!!」

「暴言を吐く口はこれかしら」


 綾坂は速水の上に乗り上げたまま、一切の躊躇なく速水の頬を掴み、横へと引き伸ばした。初対面であるにも関わらず、遠慮も容赦もない行動だった。速水は綾坂の手を退かそうとするも、痛む体のせいで満足に動けない。綾坂を退かすことを断念した速水は両手を地面に投げ出したまま、目を閉じた。


 綾坂の手が速水の頬から離れる。


「生きてる?」

「……勝手に殺すな」

「今にも死にそうじゃない」

「放っておけよ。お前には関係ないだろ。うぜぇな」

「死にかけの人に言われてもねぇ……。放っておいて死んだら後味悪いじゃない」

「どうでもいいだろ」

「よくないわ。……ねえ、あなた。名前は?」

「…………」

「名前は?」


 綾坂の細い指が速水の下りた瞼を無理やりこじ開ける。


「いててててっ!! おま、」

「名前は?」

「名乗るときは自分から名乗れよ!!」

「それもそうね。私は綾坂蛍よ」

「……はあ、速水蛍」

「漢字は?」

「速度の速に水で速水。蛍と書いてけい」

「私と同じ漢字なのね。運命かしら」

「気色悪っ」

「えい」

「ぐっ、鬼畜か、」


 速水の瞼をこじ開けていた綾坂の手が今度は速水が怪我している部分をつつく。当然ながら速水はうめき声をあげた。


 速水の瞼が上がる。


「さて、速水君」

「んだよ」


 綾坂が嬉々とした声で言葉を紡ぐ。

 その声は雨音の中でもより鮮明に速水の元へと届いた。


「友達になってくれない?」

「は? 頭沸いてんのか?」


 速水は反射でいらえた。目を瞬かせて綾坂を凝視する。


「失礼な男ね。私は速水蛍という一人の生意気な少年と仲良くなりたいだけよ」

「イカれた女と友達になる気はねぇ」

「友達になるくらい、いいじゃない。どうせあなた一人でしょう?」


 確かに速水は一人だ。ずっと一人だった。友達はもちろんいない。

 誰もが速水を避け、近づくことさえ拒んでいた。


 しかし、綾坂は違った。他の者たちと一線を画していた。


 綾坂だけだったのだ。

 友達になりたいと、真正面から言い放ったのは。


「…………勝手にしろ」


 速水は無意識にそう口にしていた。


 その言葉を聞いた彼女は穏やかな、そして本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。あまりにも綺麗な笑顔に速水は言葉を失う。


「うん。よろしく速水君」

「ああ」

「君は私のお友達一号ね」

「……俺、不良だけど?」


 訝しげな顔で綾坂を見上げる速水。


 綾坂は盛大に吹き出して声を上げて笑った。それは嘲笑などではなかった。


「あははははっ!! 自分から「不良です」っていう人初めて見たわ!!」

「五月蠅ぇ」

「あはははっははっ!!」


 ある程度の時間笑った彼女は目尻に浮かんだ生理的な涙を拭うと不敵な笑みを浮かべた。


「私のことを誰だと思っているのかしら」




 その後、雨に打たれて全身を濡らした速水は綾坂の家に連れていかれ、手厚い待遇を受け、風邪になることはなかった。


 あの雨に日以来友達となった速水と綾坂はどこでも一緒にいる。


 そして綾坂に絆された速水からの愛の告白で綾坂と速水は無事に付き合うことになったのだった。



 そして今に至る。




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