第9話 愛をこめて


 日下部先輩と別れ、やっとの思いで部室に戻ってきた俺たちを待ち受けていたのは、髪が乱れている綾坂先輩とでっかい翼が生えている馬だった。……違う、でっかい翼を生やした、馬の被り物を被っている速水先輩だ。は?? なんで翼???


「お帰り、ずいぶんと時間がかかったのね」

「ヒヒーン!」

「久瀬いのり! ただいま戻りました!!」

「いやいやいやいや、」

「あら、どうかしたのかしら稲葉君。イヤイヤ期はとっくに過ぎたでしょうに」

「駄々をこねているんじゃなくて、目の前の現実を受け入れられないだけです」

「考えるのを止めて感じなさい」

「インスピレーションでそうにかなるもんじゃないでしょう」


 全くもって意味が分からない。


 先輩のために演劇部の部室まで馬の被り物を取りに行ってきた。それで、帰ってきたら、白馬の王子様ごっこしながら校内を一周してきただろう先輩方がいた。速水先輩には翼が生えていた。なんだこれ。現実だよな??


 試しに自分の頬を聞き手で打って見たが、目の前の光景が変わることはなかった。

 いっそのこと変わってほしかった。


 俺は隣に立っている久瀬を見下ろす。久瀬は一切合切速水先輩について触れていないし、動揺すらしていない。もしかして気づいていないだけなのか? 否、でも、こんなにも目立つものがついているんだぞ??


「……久瀬、現実を受け止められているか?」


 小声で聞いてみる。


「今全力で感じているから待って」


 久瀬は俺に一瞥もくれずにいらえた。


「感じたところで何も得られねぇよ」

「翼が綺麗なことだけは感じ取れたよ!!」

「それは単なる現実逃避だ」


 帰ってきたら先輩の背中に翼が生えていました。

 こんなこと他の人に言ったら、頭のお医者さんを紹介されそうだな。


「……先輩、説明してください」

「? 呪いが進行したみたいで翼が生えたの」

「馬って翼生えてましたっけ???」

「それはペガサス」

「じゃあ、先輩は呪いが進行するとペガサスになっちゃうんですか!?」

「多分……??」

「ヒヒーン……??」


 久瀬の問いに綾坂先輩と速水先輩がいらえる。二人とも語尾を小さくし、首を傾げている。


 先輩たちもわかってはいないようだった。当事者もわかっていないみたいなのだが、それは大丈夫なのだろうか。


「まあ、呪いを解いてしまえば関係ないことね。稲葉君、あなたが今手に持っている馬の被り物を貸してくれるかしら?」

「あ、はい……」


 綾坂先輩の方に歩み寄り、埃被っている茶色の毛並みを持つ馬の被り物を手渡す。

 先輩は馬の被り物を手に取るなり、眉を顰めた。


「……汚いわね。どのくらいの期間使っていなかったのかしら?」


 先輩は文句を垂れながら、窓側に近づく。そして豪快に窓を開けるとそこから身を乗り出して馬の被り物を叩いて埃を落としていく。


 文芸部の部室にも一応ゴミ箱は設置されているのだが……。まあ、先輩だしな。

 茶色の毛並みを持つ馬の被り物は相当の量の埃を被っているようで、遠目から見ても部室の蛍光灯に反射した埃が暗闇に消えていく様子が見える。


「はう…………、埃を落とす先輩も格好いい」


 後ろを振り返れば、恍惚とした表情を浮かべる久瀬の姿が目に映る。


「ヒヒン……っ!!」


 隣を見れば、両腕を体に巻き付けて体を震わせる速水先輩がいた。速水先輩に合わせるみたいに、先輩の背中についている羽も限界まで畳まれて、そして震えている。


 二人はこんな状況下でも通常運転だ。ある意味すげえよ。


「…………よし、これくらいでいいかしら?」


 ある程度埃を掃き落としたらしい先輩が乗り出した上半身を戻して窓を閉める。鍵をかけたのを確認すると、躊躇せずに馬の被り物を被った。


 俺は踵を返し、入り口付近に立ったまま動いていない久瀬の隣へと戻る。


 馬の被り物を被った人が二人。そのうちの一人は背中に羽を生やしている。先輩方は向かい合うようにして立った。


「初めて被り物を被ってみたけれど、ゴム臭い上に息苦しいわね。視界だってすごく悪い。こんな状態の速水君を走らせてしまったのは足の小指の爪の先くらい申し訳ないと思うわ」


 馬の被り物を被っている状態で綾坂先輩がしゃべる。被り物のせいで先輩の声はくぐもって聞こえづらかった。


 それはほとんど思ってねぇのと同意では?? 全然申し訳ないと思っていないだろ。


「ヒヒーン!!」

「うふふ、速水君は優しいのね」


 恋は盲目とよく言うが、あれは盲目すぎるだろ。


 先輩方がゆっくりと時間をかけて歩み寄る。その様子はまるで……。


「私たち、先輩の結婚式でも見ているのかな」

「……ヤベー結婚式だな」

「先輩方は楽しそうだからいいんじゃない?」


 確かに結婚式みたいだが、馬の被り物を被った状態で結婚式を執り行うというのは、刺激が強すぎだろ。神父も身内もびっくりして腰を抜かすに違いない。


 先輩方は馬の被り物を被った状態でキスができる位置まで歩み寄ると足を止めた。


 俺も久瀬も速水先輩も綾坂先輩も。その場にいる誰もが一言もしゃべらずにいるので、部室の中では速水先輩の荒い鼻息だけが響いている。


 速水先輩と綾坂先輩が見つめ合うこと数十秒。


 先輩方の手が互いの腰に、背中に回る。


「キャーー!!」


 いつもは部室内いっぱいに響くような声を上げる久瀬が、気を利かせてなのかは知らないが、声を抑えて叫んでいる。


 馬の被り物の口の部分が何度も何度も角度を変えてぶつかった。ぶつかるたびに、先輩方の手は相手の制服を握りしめては、離し、背を滑っていく。


 雰囲気も様子も海外映画で見るような恋人同士のキスシーンみたいなのだが……。馬の被り物同士なので情緒もクソもない。エロい展開のはずなのにエロくない。俺の心を占めるのはある言葉だけだった。


「なんだこれ……」


 なんだこれ。俺も意味が分からない。


「なんだこれって……これは先輩方のキスシーンじゃん」

「そうだけど、そうじゃない」

「じゃあどれ?」

「俺にもよくわからない」


 馬の被り物同士で行われるキスシーンなど後にも先にも見ることはないだろう。こんなものを何回も見る気はない。


「ねえ、稲葉」

「ん?」

「先輩方がさ、何度も何度も角度をかえて軽いキスをしているじゃん?」

「ああ」

「あれが一般的に言う“バードキス”だよ」

「そっか、どうでもいいわ」

「ひっど!?」


 先輩方が馬の被り物を被ったままキスしてて、そのキスの名称が“バードキス”。こんがらがってしまいそうだ。


 小声で会話をする俺たちを他所に、先輩方はずっとキスを繰り返す。何度も、何度も、何度も、何度も角度を変えて互いの口を啄ばみ、互いの体に手を滑らす。


 しつこいようだが、もう一度だけ言わせてほしい。


 なんだこれ。


「ンンッ」

「っは、」


 先に限界が来たのは速水先輩の方だった。


 速水先輩は膝を折り、のけぞるようにして床に崩れ落ちていく。速水先輩を追うようにして綾坂先輩も床に膝をついた。


「ま、ちょ、」

「待たないわ」


 制止を求める少年のくぐもった声を、綾坂先輩が切り捨てる。


 ……少年の、声?


「稲葉稲葉!! 今、速水先輩の言葉!!!」

「!! 俺も聞こえた」


 確かに聞いた。馬の鳴き声ではなく、少年の声を。


 速水先輩が馬の鳴き声ではなく、人の言葉を話している。


 俺は久瀬と顔を見合わせてから、再度未だにキスをしている先輩方に目を向ける。馬と馬が激しいキスをしているシーンは結構キツイがそんなことは言っていられない。


 俺は先輩方の姿を——特に、速水先輩が被る馬の被り物を——凝視する。


 速水先輩がこの文芸部の部室に訪れた時、馬の被り物の耳も目も動いていた。まるで本物の馬のように、生きているように動いていたのだった。しかし、今はどうだろうか。速水先輩が被る馬の被り物の耳は動く気配がないように見える。目だって瞬きをしていないし、見開かれた黒目があちこちに動くこともない。


 でも、翼はまだ生えたままだ。


「呪いを解くにはキスが効果的って本当だったんだ……!!」

「すげーな」

「綾坂先輩の愛が速水先輩を救ってる!!!!」

「漫画とか小説とかでしか見たことがない展開だな」

「すっごーい!!!!」

「すげぇな」


 まるで童話みたいな展開だ。


 速水先輩の背中が床にぶつかる。生えた翼が羽をまき散らしながら床いっぱいに広がった。すると、必然と綾坂先輩が速水先輩を押し倒すような姿勢となる。綾坂先輩は床に倒れた速水先輩を押し倒した姿勢から、跨る姿勢をとる。


 馬の被り物を被った綾坂先輩が馬の被り物を被った速水先輩の上に馬乗りになっていた。


「ほた、ほ、……んっ」

「ふっ」


 やっと綾坂先輩が速水先輩とのキスを止める。


 綾坂先輩が被る馬の被り物の口と速水先輩が被る馬の被り物の口の間に銀の糸ができる。糸は弛んだ後にすっと切れた。


「は、は、はっ」

「はーっ、はぁっ」


 先輩方の荒々しい呼吸の音だけが部室内に響く。


 綾坂先輩は乱暴に馬の被り物を脱ぐと床に投げ捨てた。いつもはきっちりと整えられているハーフアップの髪型が乱れており、切りそろえられた前髪は跳ねている。先輩は肩で息をしながら、自身の前髪を書き上げた。そして眼鏡を外して制服の袖で顔を拭い、眼鏡を掛けなおす。


「これだけキスしても外れないのね。しぶとい呪いだわ」


 綾坂先輩の細い指が馬の被り物の耳を鷲掴み、引っ張り上げる。……が外れることはなかった。


「でも、速水先輩の言葉が聞き取れるようにはなりましたよ!!」

「キスの効果はちゃんと出ています」

「? 速水君は最初から普通に喋っていたでしょう?」


 さも当たり前であるかのように先輩はこたえる。


 いや、最初から普通に喋ってはいなかった。少なくとも俺と久瀬には速水先輩の言葉は馬の鳴き声にしか聞こえていなかった。


 ……ああそういえば、綾坂先輩だけは速水先輩の言葉を普通に聞き取っていたな。


「流石、蛍!!」

「褒めてもキスしかできないわ」


 歓喜の声を上げる速水先輩。穏やかで優しさが滲む笑みを浮かべる綾坂先輩。


 完全に二人の世界に入っていた。


「先輩、これからどうするんですか? 馬の被り物同士じゃ、完全には呪いを解くことができないみたいですけど……」


 久瀬が控えめな声で質問する。


 そうだ。馬の被り物同士でキスをした結果、呪いを解くにはキスがいいと分かっただけで根本的な解決に至ってはない。やっぱり、綾坂先輩のファーストキスを速水先輩(馬の被り物装備)に捧げるしか……。


「そうね。なら、私も本気を出そうかしら」


 綾坂先輩が自身の制服の袖をまくる。


「ほ、蛍……?」

「綾坂先輩……?」

「言ったでしょう? 私は馬の被り物如きにファーストキスをあげるつもりは毛頭ないのよ」


 綾坂先輩の腕が、速水先輩の馬の被り物に伸びる。



 そして——……。


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