第8話 簡易ハネムーン
放課後の部活動の時間帯ということもあり、廊下を歩く生徒の数は少ない。
そんな人通りが少ない廊下を駆け抜ける大きな影が一つ。足音を響かせながら、身軽な動きで飛ぶように廊下を過ぎていく。
偶然にもその大きな影を目に入れたものは、皆一様に足を止めて自分たちの横を通り過ぎる大きな影を凝視した。その場にいる全員が、通り過ぎる電車に合わせて顔を合わせるように見るものだから、面白いほどに顔の動きが一致している。
あるものは目を見開き、口をあんぐりとあげて動きを止め。あるものは脳の情報処理能力が追い付かなかったが故に二度見をする。またあるものは自身の頬を自身の手で叩いた。誰一人として言葉を発しなかった。……発せなかったのだ。あまりにも突飛な光景だったが故に。
「ヒヒーン!!」
「あはははは!!」
石像のように固まった生徒たちには目もくれず、大きな影は鳴き声と愉快そうな笑い声を響かせて走り去っていく。大きな影の軌跡には水滴と花の香りが残されていた。落ちた水滴を見た生徒の一人が、
「車かよ……」
と、口にする。
大きな影は止まることなど知らないとでもいうように、階段を駆け上がり、今まで走っていた廊下の上の階の廊下を駆ける。
「すっごい楽しいわ! あははっ!! うふふっ、ふふ」
「ヒヒーン! ヒヒン!!」
大きな影の正体は、二人の生徒だった。
すらりと伸びた足に、筋肉のついた腕で少女を背負いながら走っている人は、白い馬の被り物を着用している。馬の被り物はしっとりと汗がにじんでいる。
対して、背負われている少女は涼しげである。少女は自身の細い腕を白い馬の被り物をしている少年の首に巻き付けて、無邪気な笑い声をあげていた。少女の紫がかった黒髪が風に吹かれて、後ろへと流れていく。
馬の被り物をしている少年が床を踏みしめて次の一歩へと踏み出すたびに少女の体は少年に合わせて大きく揺れた。少女がかけている眼鏡も少女より遅れて上下する。
「もう最高!!」
「ヒヒン!!」
少女——綾坂蛍の歓喜の声に、馬の被り物を被っている少年——速水蛍も同意するように鳴く。
廊下を駆け抜ける二人を咎めるものはだれ一人もいなかった。
二人を見かけた生徒だけならまだしも先生ですら、何も言わなかった。
……否、言えなかった。
片や、学校側の不手際により演劇部の部室におかれていた呪いの馬の被り物を被ってしまい、呪われ、馬の被り物が取れなくなってしまった少年。片や呪われた少年のために家庭科室で拾った包丁を片手に校長室へ乗り込み、校長と“お話”をした、行動力に優れすぎた少女。
教員たちは誰一人漏れることなく、呪われた少年と少女の行動について知っていた。知っているからこそ、何も言わなかった。言えなかった。彼らは皆、二人と関わりたくなかったのである。特に少女の方。綾坂に関しては「トラウマ製造機」と水面下でささやかれている。誰もトラウマを作りたくはなかった。
声と鳴き声を上げて校内を駆けまわるのを見た、知った教員たちは一度深呼吸をして“なかった”ことにしたのだった。
そんな教員たちのことなど知らない二人は、それはそれは自由に校内を駆け回る。
「あははははっ!!」
「ヒヒーーーンンッ!!!」
速水の背中に跨りながら風を感じる綾坂は、無邪気な声を上げて喜ぶ。
頬を赤く染め、大きく口を開けて笑うその姿は年齢よりも幼くみせた。
綾坂を乗せた速水が校内を一周し、二周目に入ろうとした時、速水はおもむろに足を止めた。
「速水君…………?」
綾坂が訝しげな様子で速水を伺う。速水の背中に乗る綾坂には、速水の顔色は見えない。(速水は馬の被り物を被っているため、見えないと言えば見えないが。)
綾坂は背筋を伸ばして、覗き込むようにして速水の顔を覗き込んだ。そこで彼女は疑問を抱く。
平生の速水蛍は、綾坂に顔を覗き込まれようものなら、黄色い声を上げて体をくねらせる。傍から見れば大変気持ちの悪い行動だが、それが速水の普通であった。しかし、今はどうだろうか。奇声を上げることもしないし、体をくねらせることもしない。
「速水君」
綾坂が静かな声で再度、速水の名前を呼ぶ。
「ヒヒーーーーーーーンッ!!!!」
「っ、速水君!?」
速水が犬の遠吠えに似た鳴き声を発する。
異常事態が起こっている。それがわからない綾坂ではなかった。
「ヒヒンッ!! ヒヒーーン!!!」
「ッ!?」
「ブルルルッ」
突如、速水が暴れ始めた。綾坂は必死に速水にしがみついた。首に回している手に力を籠め、必死にしがみつく。校舎内を走っていた時に綾坂を支えるために回されていた手のおかげで落とされはしなかった。
「しっかりしなさい! 速水蛍!!」
凛とした声が廊下に反響する。
その声に速水は動きを止めてしゃがみ込んだ。綾坂の足が廊下を叩く。
苦しげな声を上げる速水。綾坂は速水の背から降りようとするが、支える手が邪魔をして下りることさえかなわない。
「ヒヒーーーンッ!!」
過去一番、甲高い鳴き声が廊下を駆け抜ける。
刹那。
速水の背中から服を突き破って純白の翼が生えた。その翼は、速水が被っている白い馬の被り物の色よりもさらに白く、美しい。
「え?」
突如出現した翼は綾坂に当たることなく、ぐんぐんと成長し、ついには速水と綾坂を包み込めるほどの大きさにまでなった。
綾坂は目を見開き、ワイシャツを突き破って生えてきた翼を凝視して固まる。……が、それはたった一瞬のことで。彼女はすぐさま険しい顔つきで翼を見分し始めた。
どうして翼が生えてきたのか。
どうして今なのか。
深まる謎に比例するように、綾坂の眉間に刻まれる皺が深くなっていく。
「ブルルルッ」
思考をめぐらす綾坂を他所に速水は低く唸る。
速水は一際大きな声で鳴く。するとその鳴き声に呼応するように、翼が廊下の横幅いっぱいの大きさまでに広がる。広げられた翼は数回上下に動かされた。翼が動かされたことにより、純白の羽が舞う。
「速水く、」
「ヒヒーーン!!」
綾坂の焦りの混じる声にも一切反応せず、速水は近くの開け放たれた窓に歩み寄る。
綾坂は盛大に顔を歪ませた。そして、舌打ちでもしそうな雰囲気を纏いながら、速水の首に回した腕にさらに力をこめて、自身の顔を速水の項にうずめる。汗臭い匂いが彼女の鼻腔をくすぐる。彼女の手は速水のワイシャツが皺になるほどしっかりと握りしめていた。
速水が窓枠に足をかける。窓に掛けられた足にだんだんと力が入っていく。
翼が音を立てて勢いよく上下する。
二人の体が浮き上がる。速水が窓枠を蹴った。
二人の体が宙に投げ出される。
綾坂は目をつぶり、体全体に力を入れて衝撃に備えた。……が、どんなに待っても衝撃がやってくることはなかった。あったのは独特な浮遊感と、空気の圧。
空気の圧が収まったところで綾坂は速水の項から顔を上げた。
「わ…………」
綾坂の口から感嘆の息がこぼれる。
顔を上げた彼女の瞳に最初に映ったのは、グラデーションがかった深い青色の空だった。ゆっくりと視線を下へと下げていくと、自分が住む町が広がっていることに気づく。目をこらすと、自分たちが先ほどまでいた学校の校舎が見えた。
(ここから物を落としたら、落とした物も落ちた先にいたものもただでは済まなそうね。)
眼下に広がる景色をぼんやり眺めながら、綾坂はふとそう思った。
「ヒヒン!?!?!?」
綾坂が速水にしがみつきなおしたところで、速水が焦りの滲む声を上げる。速水は鳴きながら、あたりをしつこく見渡した。そして足元に広がる街並みに気づくと、絶叫した。
「おかえり、速水君」
「ヒヒーン!? ヒヒン!?!?」
「どうもこうもないわ。いきなり速水君の背中から翼が生えたかと思ったら、速水君が私を抱えたまま窓から飛び出しただけ」
「ヒヒン!? ヒヒーーンン……」
「謝るくらいなら、ここから降りる方法を探しなさい」
「ヒーン……」
速水の背中から生えている大きな翼がせわしなく上下に動いている。ずっと上下に動いているせいか、綺麗な羽が抜けて、はらりはらりと空を舞っている。純白の翼は空の深い青色に染まりつつあった。
左右を見て、上下を見て、頭を抱える速水。自分がどうして綾坂を背に乗せたまま空に立っているのかわかっていないようであった。
「…………はあ、」
「!?」
綾坂が深い息を吐き、自身の額を速水の背中に擦り付ける。切りそろえられた前髪がくしゃくしゃになっていく。
「この翼は呪いのせいってことでいいのよね?」
「ブルルル……」
彼女の声は弱弱しく、そして震えていた。
「本物の馬になる呪いじゃなかったの?」
「ヒーン…………」
「自分のことくらいちゃんと理解しておきなさい」
「ヒヒン」
「……私は、」
言葉を切る。
彼女は顔を上げると今度は自身の顎を速水の肩に乗せた。徐々に変わりつつある空を遠目に見ながら、綾坂は言葉を紡ぐ。
「私は速水君が馬になってしまっても別にいいかなって、心のどこかで思っていたの。だって、私が惚れたのは速水蛍の外見ではなくて中身だから。……速水君の人間性に惚れているのだから。たとえ外見が人だろうが馬だろうが、ミジンコだろうがパンツだろうが、速水君の中身が変わっていなければ、私は速水君を愛することができる。それについては私の人生を賭けたって構わないわ。……でもね、中身が速水君じゃなくなるのは嫌よ。それだけは許さない」
「…………」
「さっきは焦ったわ。このままじゃ、速水君が速水君ではなくなると思った」
——怖かった。
ばたつく翼の音にかき消されそうなくらいの小さな声で、自身の心中を吐露した彼女はそれきり何も言わなくなってしまった。
滅多に自分の本音を吐露しない綾坂が零した本音はしっかりと速水に届く。
速水の首に回された腕は小刻みに震えていた。
「ヒヒン」
「あやまらないで、」
「……ヒヒン。ヒヒーーン、ヒヒン、ヒヒーン。ヒヒンヒヒーーン、ヒヒン、ブルルル?」
「…………」
「ヒヒンヒヒーンヒヒーン。ブルル、ヒヒンヒヒーーンヒヒン。ヒヒン」
「私は速水君に責任を感じてほしいわけじゃないの。……今回の件は私にも反省点があるわ。だからこれは私たち二人の落ち度よ。まあ、一番の問題点は、私たち二人がこの非現実的なことを『非現実的だから』と侮っていたせい。これが喧嘩だったら負けていたわよ? ……これからは二人で“本気で”挑みましょう。私たち二人なら怖いものなどないでしょ? 頼りにしているわ。番長君」
「ヒヒーン! ヒヒンヒヒーーン、ヒヒン!!」
「その呼び方はやめてちょうだい」
綾坂が小さな笑いをこぼすと速水もつられて鼻息を荒くする。
いつの間にか、綾坂の体の震えは止まっていたおり、速水の首に回っている腕に込められた変な力も抜けていた。
二人は二人の世界に入り込み、花をまき散らしながら、笑い合う。
……二人は気づいていない。とても真面目でシリアスなシーンであるにもかかわらず、呪いのせいで速水が鳴くことしかできないために、深刻さが薄れていることも。速水が言っていることを綾坂以外読み取れないことも。後日に、
『ある地域上空から未確認生命体の羽が落ちてきた』
『上空から鳴き声と笑い声が聞こえてきた』
などと言う証言が集まり、ニュースで報道されることとなることも。
二人はまだ知らない。
「速水君、そろそろ部室に戻りましょう。いのりちゃんと稲葉君が帰ってきているかもしれないわ」
「ヒヒーン!!!」
「降り方はわかる?」
「ヒヒン!! ブルルルル!!!」
「頼もしい彼氏さんね。任せたわ」
「ヒヒーーン!!」
速水の背中に生えた翼がひときわ大きく上下に振れる。空の上に安定して立っていた速水の体がぐらりと揺れた。
「わ、」
綾坂が驚愕の声を漏らす。その声には少し愉悦の色が滲んでいた。
「っうふふ! 今の私たちならなんでもできる気がするわ!」
「ヒヒン!!」
「あははっ! そうね! 私たちが揃えば敵なしだわ!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます