第3話 回想


 速水先輩が呪われたと知った時、一番動揺していたのは綾坂先輩だった。


 そりゃあ、演劇部の助っ人に行った彼氏が呪いの馬の被り物を被って戻ってきたら、ビックリするよな。しかも、馬の被り物が、呪いがかかっているとかいう非現実的なもののせいで取れなくなっていたのだ。


 動揺した先輩が真っ先にしたことは部室を飛び出して家庭科室に駆け込んだことだった。俺も速水先輩と一緒に慌てて綾坂先輩のことを追いかけたのでその時のことをよく覚えている。馬の被り物を被った速水先輩と並走するのは少々恥ずかしかったが、緊急事態だったためにそんなこと言えなかった。部活動の時間帯で廊下を歩く人がほとんどいなかったことが幸いだった。


 察しの良いやつらなら多分わかると思うが、家庭科室に駆け込んだ綾坂先輩は、家庭科室で部活動を行っている料理研究部から包丁を借り——否、あれは、強奪したと言ったほうが適切だろう——、その包丁を家庭科室にあった砥石で研ぎ始めた。

真っ青な顔をして、

「どうしよう、どうしよう……」

 と、不安げな声と涙をこぼしながら、丹念に包丁を研ぐ先輩。俺と速水先輩(馬の被り物装備)がいきなり現れたことで、限界まで目を見開いて口を開けたまま動きを止める料理研究部の人たち。先輩の奇行に言葉を失う俺。包丁を研ぐ綾坂先輩を見て、

「俺の彼女最高に可愛い……!!」

 と、一人で興奮する速水先輩。


 これをカオスと言わずしてなんと言うのか。


 今思い出しても、あれはマジでカオスだったとしか言いようがない。


 綾坂先輩はある程度包丁を研ぐとその包丁を片手にもったまま、

「邪魔をしたわね、失礼するわ」

 と言って、空いた手で速水先輩の手を掴んで俺の隣を通り過ぎて颯爽と去っていった。俺は二人を追うべく、すぐに踵を返した。


 もちろん、料理研究部の人たちへの謝罪を忘れずに。



 綾坂先輩が次に訪れたのは演劇部の部室だった。先輩は演劇部の部室の扉——教室の扉は全部引き戸で、この時、演劇部の部室の扉は少し開いていた——の空いた隙間に足を入れると、足で扉を開け放った。蹴りに似た開放方法により、部室にいた部員たちの注目は一気に先輩に注がれた。部員たちは先輩方を見るなり青ざめ、膝を折り、額を床へ叩きつけるようにして下げた。あれは完璧な土下座だった。


「速水君にこれを被せたのは誰かしら?」


 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花とも囁かれるほどに美人な綾坂先輩の氷点下のような声を聞いた部員たちは小さくなった体をさらに縮めて謝罪を口にしていた。俺は先輩方の後ろ姿と先輩方の間から演劇部の部員を見ていただけだったが、部員たちの怯えようからして、綾坂先輩は相当怖かったんだと思う。あの後、演劇部に所属する同級生にあの時のことを遠回しに聞いてみたところ、演劇部員は泣き出してしまったために全く話ができなかった。つまりはそういうことである。


 閑話休題。


 演劇部員の話によると、いわく付きの馬の被り物は校長先生からもらったものであるということだった。呪いの被り物だとは一切聞かされていなかったようで、速水先輩に被せて、取れなくなったところで、

「あれ、おかしくね?」

 と、思ったそう。


「なんで今まで被ってなかったんだよ……」


 呆れを含んだ速水先輩の声に演劇部員は言った。


「馬の被り物を使う機会がなかったんです…………!!!」


 ドンマイ、としか言いようがなかった。


 演劇部員の話を聞いた後に俺たちが訪れたのは校長室だった。先輩は片手で包丁を持ち換えてから、少しの躊躇もなく校長室の扉を叩いた。鮮やかな包丁の扱い方に、そういえば先輩って料理が得意って言っていたよな、と現実逃避してしまったのを覚えている。


「どうぞ」

「失礼します」


 扉の向こうから返事が聞こえたのを合図に、片手に包丁、片手に速水先輩を装備した綾坂先輩が入室した。俺も先輩方に着いて一緒に入った。流れに乗った結果の入室であった。


「な、なんだね、君は!?」


 俺たちを見て素っ頓狂な声を上げる校長先生。若干引き腰だったと思う。


「申し遅れました、私は綾坂蛍と申します」


 そんな校長先生のことなど綾坂先輩は少しも気にしなかった。気にせず、自分のペースで会話を始めていた。


「あや、綾坂君! な、何故、ほ、ほう、包丁を!?」

「拾いました」

「どこで!?!?」

「家庭科室です」

「それは、」

「拾ったんです」

「だ、」

「拾ったんです。拾った包丁の事などどうでもいいでしょう? ちゃんと後で家庭科室に届けるのですから。……それより、本題に入りらせていただきます」

「……本題? …………な、なん、なんだね」

「速水蛍が現在被っている馬の被り物についてです」

「!? 何故、君がそれを……!!」

「ああ、ご存知なのですね。それはよかった。…………稲葉君。あなたは外で待機していて」

「え、」

「心配してついてきてくれたのでしょう? 私はもう大丈夫よ。だから、外で待ってて」

「…………はい」


 俺は先輩の指示に従って外で大人しく待つことになった。先輩の気遣いかは知らない。多分だが、俺は知らなくてもいいことだと考えたのではないかと思う。


 静かな廊下にただ一人ぽつんと立ちながら、校長先生生きてっかなとか思いながら待っていると時間が経つにつれて校長室からは男性の謝罪が聞こえてきた。それに鼻をすする音も微かに聞こえていた。


「お待たせ、稲葉君」


 ガチャリと扉が開き、出てきたのは晴れやかな顔の綾坂先輩としきりに背後を確認する速水先輩だった。こっそりと校長室を覗こうとしたが、それは紛れもない綾坂先輩の手によって防がれた。


「…………校長先生、島流しとかされませんよね?」

「何時の時代の話かしら」

「大丈夫、だと、おもっ……信じたいな、あぁ……」


 その言葉がもう大丈夫じゃなかった。


「そんなことよりも稲葉君に報告よ」

「はい?」

「速水君明日からお寺とか神社とか巡る旅に出るから」

「はい???」


 綾坂先輩曰はく、速水先輩が被っている呪いの馬の被り物は紛れもなく本物であり、ずっと被り続ければ、最終的には本物の馬になってしまうのだという。そして最後には

「まあ、たとえ速水君が本物の馬になったとしても、私は速水君を愛し、養うわ。馬じゃない生き物になったとしてもそれは変わらない。私は速水君と一生を共にすると決めたのだから」

 と、言って締めくくった。重い思いを聞いた速水先輩は鼻息を荒くして身をよじり、悶えていたのは言うまでもなかった。


「あと、出席日数も進学についても何一つ問題はないわ。校長が何とかするって言ってくれたもの。速水君も聞いていたし、私はちゃんと録音までしたから裏切られることもない」

「用意周到ですね」

「ボイスレコーダーを持ち歩くのは常識よ。覚えておきなさい」

「常識とは??」

「常識。普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに、理解力・判断力・思慮分別などを含む。広辞苑より」

「辞書的な意味ではないです。……というか、なんで覚えているんですか」

「昨日広辞苑で読んだの」

「なんていう偶然!?」

「さすが蛍!!」

「ありがとう」


 その日はすすり泣く声が聞こえている校長室の前で解散となった。


 ……校長先生は今のところ変わってはいない。



 これは完全な余談になるが、あれから校長先生は綾坂先輩を視界に入れるなり、顔を青を通り越して真っ白にしてぶっ倒れるようになった。他の者たちは、

「綾坂先輩の美しさに校長が負けた!!」

「綾坂先輩ヤベー!!」

「綾坂先輩の美しさはどんな奴にも通じるのか!!?」

「ウケる」

 などと、笑いながら口々に言っていた。


 ……知らない方がいいことってあるんだな、と、俺は本気で思った。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る