第29話 病室
一体どれほどの時間が過ぎたのか。もはや私にはどうでもいい話なのだが、いい加減この味気ない部屋にも飽きてきた。まあ、一日中何をするでもなくただぼうっと寝転んでいるだけなのだからそれも当然か。負傷した体は未だ治る兆しを見せず、少しでも動こうものなら激痛がこの身を襲う。
本当に、私は何をしたらよいのだろうか。
わからない。
動くことが出来ないから思考だけがぐるぐると意味のない迷宮をさまよっている。私は何故こんなところに無意味に寝転んでいるのだろう。
「邪魔するよ」
不意に耳に飛び込んでくる明るい声、どこかで聞き覚えがあるようなその声の主を見ようと顔を向ける。健康的に日焼けした小麦色の肌、爽やかで溢れんばかりの笑顔を浮かべたショートカットの女子は、どうやら大学でよく私に話しかけてきた、あの女子に間違いないようだ。
「ああ、生きてるね」
ただ目の前の事実をそのまま言ったという風な何気の無い一言。聞くものによってはだいぶ失礼な言葉だと思われるような、そんな言葉は、本人の悪気の無い様子故か、不思議と腹は立たなかった。
彼女は静かに私の寝ているベッドの側まで近寄るとそっと私の顔を覗き込んできた。
「私がここに来たことが不思議? 特段仲良くもない、ただ大学の授業で一緒だというだけの私が、この病室にいる事が不思議なんでしょ?」
彼女の瞳は海の底を覗き込んだかのような、深い青を湛えた光を感じさせた。じっと見つめると不安がこみ上げてくる、まるで絶対的な上位者に掌の上で転がされる哀れな弱者のように。
こんな人物だっただろうか?
わからない、私はあまりにも彼女という存在に対して無頓着すぎたのだ。
「あはは、ひっどい顔してるね神崎さん。美人さんが台無しだよ」
彼女はそう言って笑いベッドの端に腰掛けると不意に片手をそっと私の顔に添える。
「あぁ、かわいそう。とってもかわいそうにねエ。あなたはすべてを持っている。恵まれた容姿、愛の溢れた両親、早すぎる頭の回転。でも、まだたりないんだ。ぜぇんぜんたりないんだね」
しっとりと湿ったようなアルトヴォイスに引き込まれる。一言、一言ゆっくりと。その言葉は私という干からびた砂場に染み入った。
「愛が、欲しい。それは人一人の身に余るほどの壊れた愛。その存在を滅ぼす甘い毒。それでも、欲しい。あなたは恵まれすぎでいたから、それ以上何かを欲するということを周りの人間がゆるさなかったんだ」
そう、それは許されないことだった。
自分はどうやら他の人より恵まれているらしい。
恵まれているものは欲してはいけない。
だってこの世は、持たざる者が正義で、恵まれたものは持たざる者のために分け与えなくてはならないという絶対のルールに縛られているのだから。
「あなたは……誰?」
その問いに彼女は優しく私の頭を撫でた。
「それは私の名前が知りたいの? それとも私という存在そのものに対しての疑問?」
わからない、私には何もわからないのです。
「ふふ、今日はこれくらいにしておきましょうか。あんまり興奮すると怪我によくないしね」
そう言って彼女は私に背を向け、ドアに向かってゆっくりと歩き出す。ドアに手をかけ、何かを思い出したかのように振り返った彼女の顔には、イタズラを思いついた子供のような含み笑いが浮かんでいた。
「アリスよ」
「・・・・・・え?」
今、彼女は・・・・・・何と・・・。
「有栖望ありす のぞみソレが私の名前・・・またね? 神崎さん」
そう言って出て行く彼女を、私は無言で見送る事しかできなかった。
「アリス・・・・・・」
また、またその名前か。どうやら、アリスはよほど私の人生と縁の深い存在であるらしい。「アリス」
噛みしめるように口にする。憧憬と嫉妬とそれから呪いを込める。
アリス
ああ、私はその存在をけして許さないだろう。
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