第28話 病室

 体中に纏わりつく不快な重力の感覚で目を覚ます。視界に飛び込んできた無機質な蛍光灯の光に顔をしかめ……脳髄の奥で弾けた鋭い痛みが私の意識を完全に覚醒させた。




 どうやら病院の個室にいるらしく、クリーム色の壁が私を逃すまいと四方を囲む。




 逃れられない。




 ああ、私はとらわれているのだ。何物にも束縛されず、ふわりと優雅に羽を広げていた私の魂は肉体という名の牢獄に捕らわれた。痛みと気だるさと絶望と、ありとあらゆる外的要因が私の魂をがんじがらめに縛りあげる。




 逃れようと手を挙げて……突き刺すような全身の痛みに顔をしかめた。




 飛び出すウサギ、迫りくる車、鮮血に染まる視界。矢継ぎ早に記憶が呼び戻される。どうやら今の私は満足に体を動かす事もできないらしい。




「あ……ははは」




 力の無い笑いと共に目から一筋の涙が零れ落ちる。無様だ、なんて醜い。私はどうやらとことんまでタダの道化であったようで、その事実を突きつけられてもう笑うしかないのだ。










  それは車酔いに似ている


  私以外のすべてが歪んでいる


  世界が不規則に揺れて


  揺れて


  歪んで


  三半規管をぐるぐるとかき混ぜる


  酔うているのだ、この世界に


  気持ちが悪い、吐き気がする


  何故みんな平気な顔をしている?


  いや、むしろ


  歪んでいるのは……












「友梨亜ちゃん・・・よかった目を覚ましたのね!」




 そう言ってベッドの側で泣きはらすのは私の母。明るめの茶髪を肩の長さで切りそろえ、顔に年相応にシワの刻まれた優しげな雰囲気の中年女性。隣で涙ぐんでいる父も所謂どこにでもいるような中肉中背の中年男だ。




 どこまでも普通な両親。




 優しい家庭。




 幸せな家族・・・。




 吐き気がする。




 普段の私ならこのどこまでも善人な母に心配をかけないように無理に笑顔をつくって「大丈夫だよ」などと返事をしただろうが、今の心の底から打ちのめされた私にはそんな余裕は残っていなかった。




 ただ感情の死んだ虚ろな瞳で泣きじゃくる母を見上げる。




 常に両親の前では笑顔の仮面を被っていた私のそんな顔を初めて見たのだろう。母は私の虚ろな瞳を見ると驚いたように一瞬その動きを止めた。




「ゆ・・・友梨亜ちゃん? ・・・どうしたの?」




 うろたえたようにオドオドと問いかける母の様子が少し痛快だった。




「母さん、友梨亜は目を覚ましたばっかりなんだよ・・・きっとまだ話せる状態じゃないんだ。少し一人で休ませてあげよう」




 冷静に判断した父が母を連れて病室から出て行った。一人病室に取り残される私、先ほどまでの五月蠅さが嘘のように静寂に包まれた病室で私はそっと目を閉じた。




 空っぽだ。




 以前の私を支配していた、異常なまでの狂気も今やもういなくなってしまった。私には、もう、何もない。何もないのです。それなのに何故私はまだこの世に存在しているのか、それすらもわからないのだから。




 ただ、愛が欲しい。




 身を焦がすほど愛して、擦り切れるほど千切れるほど軋むほど狂うほど……無償の愛が、持ちきれないほどの過剰な愛が欲しいのです。それはきっと善良な私の両親には荷が重い事だから。だから……




「だれか……愛して……」




 ポツリと漏れたその言葉は、蚊の鳴くようなその言葉は、誰の耳にも届かずに、ただ無機質な病室のカーテンに吸い込まれていった。


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