第26話 ジャバウォック

 煉獄の炎を凍らせたような冷たくも深く熱い赤を称えた瞳。この世のモノならざる双眸に睨み付けられ、私は一瞬我を忘れた。自らの名も存在も役割も忘れ、ただ恐怖に震えたのだ。




 ああ、漆黒の翼を大きく広げソレはゆっくりと姿を現した。ソレは終焉の竜。名をジャバウォックというのだ。




 巨大。 




 初めて目の当たりにした。その生き物は、神々しいだとか恐ろしいだとかそんな形容詞をつける前に、ただただ大きいという事が凄まじく恐ろしいのだという当たり前の事を私に知らしめる。




 猛禽類のソレを思わせる、ぬらぬらと光る翼をバサリと広げジャバウォックは咆哮した。ビリビリと鼓膜を破らんばかりの声と供に、ドロドロとした濃厚な殺意が物理的な力を持つかのように私に叩きつけられた。




 怖い。ただ怖いのだ。生まれて初めて他者から向けられる本物の殺意。思わず握りしめたヴォーパルの剣は初めて見たときの神々しさを忘れ、ただの鉄くれへと成り下がる。ジャバウォックの強大さに比べなんとか弱く、そして矮小な事か。




「っああああああ!!」




 恐怖を振り払うように、否、恐怖から逃げるように雄叫びを上げる。ヴォーパルの剣を高々と振りかざし、終焉の竜へとかけだした。






◇ 






 ああ、私は少し天狗になっていたのだろう。自身の望んだこの世界に導かれ、帽子屋にアリスだと甘やかされた。




 思い出す。 




 思い出したのだ。




 打ちのめされ、叩き潰され、噛みちぎられた。ジャバウォックの圧倒的な力の前に私の力など通用するはずも無く、血だらけで横たわる。








―――懐かしい








 そう、この感覚。知っている、この惨めさは知っている。




「ああ、お前は世界の理不尽そのものだ」




 知っている、この理不尽さは。目的も無く、希望も無く、誰も自分を見てくれない。じわじわと真綿で首を絞めるように息が詰まっていく。抜け出したくも抗えぬ強大な無慈悲さ。




 ああ、私はこの理不尽さを知っている。














 殺さなくちゃ。




 この世界で理不尽などあってはならない。お前がこの世界の”理不尽”そのものであるのなら、私はお前を殺さねばならない。




「なぜなら私はアリスなのだから」








(へえ、アナタはアリスなのね)








 声が、聞こえた。








(待っていたわアリス。ずっとずぅっと長い間、わたしはアナタを待っていた。世界が生まれて死に、そしてまた生まれる間、わたしはアナタだけを待ち望んでいたの)








 やわらかな、それでいて狂気を孕んだ少女の声。








(お帰りなさいアリス。さあ、物語をはじめましょう)










 体中の細胞がまるで息を吹き返したかのように高速で再生を始める。ゆっくりと立ち上がり、剣の切っ先をジャバウォックに向ける。




 力が、漲ってくる。先ほどまでの恐怖が嘘のように霧散し、今の私には奴に勝てるイメージしか浮かばない。




「殺すわ」




 殺意に呼応し、ヴォーパルの剣が唸りを上げた。肉厚の刃はかすかに発光し、獲物を求めてドクドクと脈打った。




 駆けだしたその足は軽やかだった、まるで重力をどこかに捨ててしまったかのように。




 一気にジャバウォックの懐に潜り込んだ私は、鱗の薄い腹の肉に刃を突き立てる。意外なことに、その刃は何の抵抗もなくあっさりと鱗を切り裂き、腹の肉を蹂躙した。




 苦痛にもがくジャバウォックに踏みつぶされないよう、剣を抜き去りいったん距離をとる。剣を抜いた時に吹き出した返り血で、私の全身は真っ赤に染まっていた。しかし意外なことに、奴の血は赤いのだ。まるで、普通の生物かのように。




 そうだ、奴の血は赤い。奴は悪魔でも神でもない。終焉の名を冠してはいるが、ちゃんと切れば血が出る生身の生物だ。ならば私が勝てない道理はない・・・・・・私は血だらけの顔で聖女のような微笑みを浮かべた。




 咆哮。




 大気を震わすソレも、今の私にはわずかな恐怖を与える事はできない。なぜなら私はアリスだから。この世界は私の為にあるのだから。








(その通りよアリス。アナタは正しいわ。アナタだけが正しいわ。さあ殺しましょう、奴の血でこの大地を染めましょう)








 ええ、殺してあげる。圧倒的に、絶望的に、奴を血で染めましょう。理不尽の象徴をさらなる理不尽な力でねじ伏せるの。




 ああ、今の私はどんな顔をしているの?











 どれだけの時間が過ぎただろう。奴を切りつけ、そぎ落とし。奴は私を踏みつけ、喰らい血をすする。抉り抉られ、辺りはすっかり深紅に染まっていた。




「気持ちいい。ねえ、とっても素敵だわ」




 芳しい濃厚な血の香り。全身を突き刺すような激しい痛みが生の実感を与えてくれる。ジャバウォックを突き刺す度に、おなかの底からぞくぞくとした快楽が背中を駆け上がる。




 心地よいのだ、この無限とも思える死闘が。愛おしくすら感じるのだ、終焉のジャバウォックが。




「ああ、でもこの時間もそろそろ終わりみたいね」




 初めて見た時に絶対にも思われた漆黒の竜、すでにその姿は自身の血で赤黒く染まり、命の灯火は今にも消えんとしている。




「殺してあげる。コロシテアゲルゥ! 今すぐに圧倒的に残酷に! 」




 アイシテルアイシテルコロシテアゲル。




 ジャバウォックをこの世界の全てをそして私自身すら・・・・・・。全てを血に染める、美しいモノも醜いモノも平等に赤へと変わるだろう。そこに意味など無く、使命ですら無く、ただ私の快楽のために全ては破壊される・・・・・・。




 思考が加速する。もはや自身ですら自分が何を考えているのかもわからない。ただ快楽のまま剣を振り・・・そしてついにジャバウォックの息の根を止める一撃が繰り出された。




 高く飛び上がり、冗談から振り下ろしたヴォーパルの剣はすっぱりとジャバウォックの首を切断し、断末魔の声を上げることも許されず邪竜は絶命した。頭を失った竜の首から鮮血が吹き出す。高く高く舞い上がった血は、深紅の雨となって私を濡らした。




「っはぁ」




 暖かくて鉄の香りがするソレに包まれて私は絶頂する。ヴォーパルの剣を投げ捨てて膝から崩れ落ち、あまりの快楽に震える我が身を抱きしめた。




 自分がおかしくなっていることなんてわかっている。でもそれがどうしたというのだ。もう止まらない。止める気も無い。私は高らかに笑い声をあげ・・・・・・突然の激痛に顔をしかめる。




「・・・・・・え?」




 理解が、できなかった。




 なぜ、私の胸からヴォーパルの剣が突き出ているのか。




「やっと、やっと私の出番のようだね」




 そう言って私を背後から貫いた犯人―――帽子屋は剣を引き抜いて私を蹴倒した。




「待ちわびたよ神崎友梨亜。私はジャバゥオックを殺せる存在をずぅっと待っていた・・・・・・待って、いたんだ」




 痛い・・・・・・・・・・・・いたい




 先ほどまでの超回復が嘘のように傷が直る兆候を見せない。帽子屋に刺されたという事実への疑問より、痛みのみが思考を支配している。




「さあもう邪魔者はいない! おいで、






















    アリス」






 クスクスと無邪気な少女の笑い声が聞こえた。




 聞こえる、声が、私の、なかから・・・・・・。






(ああ、ようやくわたしの出番なのね)






 ずるり


 寒気を覚える感覚と供に体から何かが抜けていく。ああ、そうか私の中から・・・私という器から彼女は今生まれるのだ。










―――アリス―――










 ああ、この世界も私を裏切るのか




 此処も私を拒絶するか












 いや




 裏切るも何も最初から




















私は




    アリスじゃ






                   無かったのだ


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