第4話 月夜の茶会
明かりを消した真っ暗な部屋の中、電源のついていないテレビの液晶画面を無心で見つめていた。そっと息を吐きだすと、無音の部屋の中、自分でも驚くほど呼吸の音が大きく聞こえる。
うっすらと窓から差し込む月光が、私の部屋のシルエットをぼんやりと映し出していた。そっと右手の親指を唇に当て、爪に歯を立てる。
さっきから酷い頭痛がする理由は明白だった。睡眠不足である。
眠れない、否。寝ることが怖いのだ。
毎日見る夢があまりにも鮮やか過ぎて……現実が曖昧になっていく。私がアリスで、鮮やかな夢の世界が目の前に広がる。
「駄目よ、私」
がりりと、爪を強く噛んだ。そうしなければ、甘美な狂気に引きずられてしまいそうな気がしたのだ。
―――ずいぶんと荒れているねえアリス
聞き覚えのない男の声が薄暗い室内で響いた。
「……幻聴か、今さらこれくらいじゃあ驚かないわ」
―――私が幻聴かどうかなんてどうでもいい筈だよ。所詮人間は自身の主観でしか生きられないのだから。君が見えている物、聞こえている音、すべてが君の現実だ。
「なぜ私の妄想は揃いもそろって言葉遊びが好きなのかしら? 気分が悪い」
―――まあ、落ち着き給えよ。
「うるさい、私に話しかけないで」
「そんなこと言わずに、落ち着いて一緒にお茶でも飲まないか?」
ハッと顔を上げる。いつの間にか、私の目の前には仕立ての良い黒の燕尾服に身を包んだ、紳士然とした長身の男が佇んでいた。右手に服と同色のシルクハットを持ち、クルクルと回して自身の頭に被せる。
「さあ、掛けなよアリス。君とは話したいことがたくさんあるんだ」
男は大げさな身振りで椅子を指し示す。睡眠不足のせいかどうやら思考がまともに働いていないらしく、私は言われるままに椅子に腰かけた。
「紅茶はダージリンでいいかね? 私の大好物なのだよ」
そういいながら、どこからともなく私の目の前に現れたティーカップに男はオシャレな装飾が施されたティーポットで紅茶を並々と注ぐ。濃い、ダージリンの香りが部屋に充満した。
「良い香りだ。つまらない人生の中で、紅茶を飲むその瞬間だけが私に潤いを与えているのかもしれないな」
男は自分のカップにも注いだ紅茶の香りを嗅ぐと、キザな仕草で少量を口に含んだ。
「飲まないのかいアリス。せっかくの紅茶が冷めてしまう」
自身の手に収まっているティーカップをそっとのぞき込む。薄暗い部屋の中、月の柔らかな光に浮かび上がるカップはどこか現実味が薄く、紅茶から立ち上る香りが私の思考をぐじゅぐじゅとかき混ぜていくかのような感覚に陥った。
「せっかくだけど……」
「そうかい、それは残念だねえ」
随分と気取った男だ。この少しの時間でも男のうさん臭さだけは強く感じられる。
「貴方はだれ?」
「ふむ、良い質問だ。私は誰か……ね。それは現実と虚構の狭間に存在する存在。あるいは君の頭の中の幻想、妄想の類。若しくは単に見ず知らずの女の子の部屋に堂々と上がり込む不審者なのか。まあ、君の好きなように解釈するといいが、そうだね私という個体の名称が知りたいというのなら、マッドハッタ―とでも呼んでくれ」
「……マッドハッタ―? 不思議の国のアリスに出てくる狂った帽子屋のことかしら」
「おや博識だね」
当然だ。小さな頃から見る奇妙な夢が、ルイス・キャロルの不思議の国のアリスという物語に酷似しているという事は気が付いていた。そうなればその物語について調べるのも自然というものだ。
「笑わせる。だから私の事をアリスと呼ぶのかしら?」
「それは少し違うな、私が帽子屋だから君の事をアリスと呼んでいる訳では無い」
では、何故?
「私は、アリスじゃないのよ」
「その通り、君の名は神崎友梨亜、アリスではない。だが私は君の事をアリスと呼び続けるだろう」
意味がわからない、この男は一体何を言っているのだろうか。
「わからないかい、そうだろうね。今の君はアリスであってアリスでない中途半端な存在だ。アリス……始まりの少女にして物語のイレギュラー。世界を正し、あるいはかき乱す狂気。その存在はもはや単一の個体に非ず、我らの存在を縛る概念としてあり続ける」
帽子屋は目を細めてティーカップを掲げた。
「例えばこのカップ、中には並々と紅茶が注がれている。外の面はカップ、その中身は紅茶だ。この状態を人は何と呼ぶだろうか」
「いきなり何を言っているの?」
「まあ、聞き給え。この状態の物体がテーブルの上に置かれているとき、これは何だと問われたら君たちは“紅茶”だと答えるだろう。おかしいだろう? カップと紅茶は存在として等価値な筈が、カップに注がれた紅茶という状態は“紅茶”になるのだ。重要なのは外側じゃあない。中身なのだよアリス。君の神崎友梨亜というカップの中にはアリスという紅茶が並々と注がれている。故に、君はアリスだ」
屁理屈だ。だけどこんなにも堂々とくだらない屁理屈をこねる人間を、私は生まれて初めて見たかもしれない。まあ、この男が人間とするならだけれども。
「ああ、綺麗な月夜だねえ。月銀の光は私と相性が良い」
帽子屋はスッと優雅に立ち上がると、窓の傍まで歩み寄りゆっくりとそれを開け放った。ひんやりとした夜風とともにふわりと夜が香った。
太陽が沈み闇が降り立つ
人も草木も眠る時
銀色の月が目を覚ます
さあ、今宵も唄いましょ
真夜中は我らの時間
さあ、今宵も語りましょ
銀色の光に照らされて
我々は目を覚ます
それは素晴らしい歌声であった。帽子屋の透き通ったテノールがどこまでも伸びていき、月に跳ね返って私の鼓膜を揺さぶる。ああ、なんて非現実的な響きなのだろう。
「ああ、楽しい時間はあっという間に過ぎていくねえ。もうそろそろ時間のようだよアリス」
悲しげな口調に、私は何か言葉を発しようと口を開きかけ……、突然の強風が窓から吹き込んだ。思わず目を閉じ、そして再び開いたとき帽子屋の姿はどこにもなかったのだ。まるで最初から狂った紳士など存在しなかったかのように部屋は無言を貫いている。
―――また会おうアリス。次は向こうの世界で
「……それは無理よ。だって」
私はアリスじゃないもの。
私は今、泣いているのだろうか?
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