とっておきのお話 ~公園のぞうさん~

大河井あき

とっておきのお話 ~公園のぞうさん~

 佳穂のお母さんは、家の前の階段を下りたところにある公園のベンチに座って、子どもは風の子という言葉を思い出していました。二月の中旬、いくらか暖かくなってきたとはいえ、まだコートが手放せないというのに、子どもたちの中には半袖半ズボンで駆け回っている男の子もいるのです。その上、昔とは違って遊具は砂場しかないというのに、よくもまあこれだけ元気を爆発させられるものだと感心していました。

 佳穂はというと、その輪の中にはいませんでした。お母さんの足元で屈んで、鉛筆代わりの小枝で地面に絵を描いています。もこもこなジャケットを着ているので、もぞもぞと大きな綿毛が動いているように見えます。今は自分の似顔絵を描き終えて、隣にもう一人付け加えようとしているところでした。

 最後に、右の泣きぼくろが彫られると、お母さんは佳穂に聞きました。

「それ、お母さん?」

「そうよ。上手でしょ」

「上手よ。佳穂は絵が好きだものね」

 本当は、今の自分より若くみえて、照れるような悔しいような気持ちにちょっぴりなったのですが、それでも小学一年生が描くにしてはできすぎといえるほどでした。

 ですが、佳穂は手を止めて、お母さんのほうへ向きました。

「絵が好きなのって、変なのかな」

「変じゃないわよ。どうして?」

 佳穂は自分の手元をしばらくじっと見た後、口をもごもごさせて言いました。

「今日ね、先生にね、「お友だちと遊ばないの?」って聞かれたの。でね、「遊ばない」って言ったの。お絵かきしたかったから。先生は「そっか」って言ったんだけど、ちょっとだけ悲しそうだった。だから、佳穂もちょっとだけ悲しいの」

 佳穂は笑っていた地面の口元をかき消してへの字に変えて、ペンを逆さに持ち替えてから線の細い小さな涙を一つ書き加えました。

 お母さんは、佳穂は私に似たのかもしれないと思って、でも笑ってしまうと佳穂がすねてしまいそうだとも思って、一つ咳ばらいをしてから言いました。

「絵が好きかどうかっていうより、佳穂が他のお友だちと遊んでいないから、心配だったのよ、きっと。でも、大丈夫。お母さんも昔は一人で遊ぶことが多かったから」

「お母さんも?」

 佳穂は顔を上げて、お母さんをしげしげと見つめました。お母さんは目元も口元も、まるで昨日見た夢を思い出しているかのようににこにことしているのです。

「そうよ。絵本が好きだったし、折り紙が好きだったし、散歩が好きだった。みんなといるのが嫌だったわけじゃないのよ。ただ、好きな遊びが、一人でするものが多かっただけ」

 佳穂はイヌツゲの実のような目をつやつやと輝かせていました。それがあんまりにも嬉しそうだったので、お母さんは、あの話を聞かせてあげようかな、と決めました。

「そうそう、お母さんもよく公園に来ていたんだけど、そのときも一人だったの。――ただし、一頭を除いてね」

 お母さんは「一頭」と言うときに人差し指を立ててにやりと笑って、佳穂の目の前へぐいっと寄せました。

 佳穂は知っていました。お母さんが芝居じみた仕草をしたときは「とっておきのお話」が始まるのです。そのどれもが、本当か嘘か分からないのです。「えー」とか「うそー」とか相づちをはさんで聞くのですが、それでも、心の中では本当のことだと信じていました。お母さんが「とっておきのお話」をするときはいつも、透き通った穏やかな目をしていましたから。佳穂は小枝のペンを持ったまま、いそいそとお母さんの隣に座りました。

 お母さんは佳穂を愛おしくなでてから、大きな絵本の表紙をめくるようにゆっくりと口を開きました。

「出会ったのは、お母さんが佳穂と同じくらいのころ。お母さんがまだ「るりちゃん」って呼ばれていたころ――」

 


 お母さんがまだ「るりちゃん」って呼ばれていたころ。

 つらいことや悲しいことがあると、いつもこの公園に来ていたの。ここは家のすぐ前にあるでしょ? 夜が近づいてくるとみんな帰るから、そのあとはお母さんが独り占めできたのよ。もちろん、夜にすっぽりと包まれたら、おうちに帰らないといけなかったのだけれどね。

 この公園は今と違ってね、素敵な遊具がいっぱいあったの。本当よ? ブランコだとか、ジャングルジムだとか、シーソーだとか、あとは鉄棒とうんていもあったわね。そうそう、木馬もあったわ。お腹にばねがついていて、背中に乗るとびよんびよんって跳ねるの。

 でも、お母さんの一番のお気に入りはね、すべり台だったの。青くて、大きくて、すべるところが長くて、絵本のぞうさんみたいだった。だから、お母さんは「ぞうさん」って呼んでいたの。いつも、ぞうさんの背中でしゃがんで、電灯の明かりから顔をそむけるようにうつむいて、ときにはぐすぐすと泣いていたわ。さっきも言ったけど、お母さんが公園に来るのはつらいことや悲しいことがあったときだから。

 あの日もそうだった。明日から冬休みが始まるってときだったんだけど、草も木もしょんぼりと灰色をしていて、むすっとした雲が雪も降らせないで空に居座っていたの。

 お母さんもしょんぼりとしていて、むすっとしていた。窓の外の空をぼんやりとながめるのが好きでね、休み時間はいつもそうやって過ごしていたんだけど、その日に先生から佳穂と同じことを言われたの。「どうして友だちと遊ばないの」って。しかも、「友だちと遊ばないと、良い心が育たない」とまで言うんだから、失礼よね。

 だからね、お母さん、ぞうさんについつい愚痴っちゃった。「私は私の好きなことをしているだけなのにな」って。ぞうさんはすべり台なんだから、返事なんてするわけないのに。

 するわけないのに、返事があったのよ。「ぱおん」って。

 お母さんびっくりしちゃって、顔をぱっと上げたのよ。そしたら、もっとびっくり。すべり台の背中が灰色の皮膚になっていて、すべる部分は長い鼻に変わっていて、左右の手すりが広がって大きな耳になっていて、息を吸うと動物園のにおいがしたのよ。しかも、おずおずと背中を触ってみるとね、赤い手袋ごしだったけど、確かに温かさが伝わってきたの。つまり、すべり台が本物のぞうさんになっていたのよ。「えー」って言っても、本当なの。お母さんだっていまだに夢だったのかもしれないって思うときがあるけれど、それでも本当だったんだから。

 悩みなんて一瞬で吹っ飛んじゃって、お母さんは「本当にぞうさんなの?」って聞いたの。そうしたら、やっぱり「ぱおん」って返事してくれた。お母さん、手をパチパチさせて喜んじゃった。手袋をしていたから、バフバフと言ったほうがいいかもしれないわね。

 その後も「どうしてぞうさんになったの?」とか「そのお鼻すてきね」とか「好きな食べ物は?」とか、いろんな質問をしてね、だけど答えを聞きたかったんじゃなくて、ぞうさんが返事をしてくれるのが嬉しかったから、「ぱおん」とか「ぱお?」とかでも、やっぱり体があったかくなったの。お母さんが真面目な子じゃなかったら、きっと門限を破っていつまでもぞうさんと話していたでしょうね。

 その日から、みんなが帰ってから夜が来るまで、ぞうさんとお話しすることにしたの。冬はちょっぴり、夏はいっぱい、もちろん、嬉しいことがあった日もね。学校のことだったり、お母さんとお父さん――佳穂のおばあちゃんとおじいちゃんのことね――のことだったり、新しいお洋服のことだったり、いろんな話をしたのよ。

 中学生になると、お母さんは合唱部に入ったの。合唱っていうのは、つまり、みんなで歌を歌うことよ。だけど、他の人はたいていさぼるから、一人で歌うことが多かった。合唱部なのにね。まあ、お母さんは一人で歌うのが、自分の声だけで音がつむがれていくのを聴くのが結構好きだったから、それはそれでよかったのかもしれないけれど。

 ただ、代わりに、ぞうさんと話す時間は減っちゃったの。部活動が終わって家に帰るころにはお日さまが沈んでいることがほとんどで、話せるのは土曜日と日曜日、誰もいなくなった後だったから。

 それでも、やっぱりぞうさんと話すのは楽しかった。話すというより、歌うことが多かったかしら。合唱部で習った歌を歌って、ぞうさんが足踏みでリズムをとって、ラッパの鳴き声で手伝ってくれてね。あれはとても楽しかった。今思えば、ぞうさんの声も音も、きっとお母さんにしか聞こえなかったんだと思う。あれだけ大きな音を出していたのに、誰も見に来なかったんだもの。

 ぞうさんは『そのままの君で』っていう曲が好きだった。中学一年生の卒業式に、卒業生に向けて送った歌で、その帰りにぞうさんに歌ってあげたのよ。桜がほどなく咲くだろうってときでね、公園全体がそわそわしていた。『そのままの君で』はちょっとしんみりする曲なんだけど、空気につられて、お母さんの声もうきうきとしていて、ぞうさんのラッパも明るくて、音符たちがスキップして行進するような歌になった。私たちだけの、特別な歌になったのよ。だから、お母さんが中学を卒業するときでさえ、ぞうさんと『そのままの君で』を歌ったのよ。

 高校生になると、お母さんは、初めて恋をしたの。すぐってわけじゃなかったけど、いつだったかしら、いつの間にかというのが正しいのかもしれないわね。けれど、ぞうさんに相談するのも気恥ずかしくて、ずっと抱え込んでいたの。それで、だましているというか、嘘をついているというか、そういう気持ちになっちゃって、ぞうさんに会うのが後ろめたくなったのよ。やがて、お母さんはぞうさんに会いに行かなくなって、さらには、告白もできないまま卒業したの。ぞうさんと歌って気を晴らしたいって気持ちもあったけど、今更会うのもな、ってためらいが強くて、やっぱり会いに行けなかった。

 そうして、大学生になって、ぞうさんと会わない日々が続いて、やっぱり会わないまま、卒業した。

 その三日後だった。ぞうさんにね、寿命が来たのを知ったの。

 あの日のことは夕ご飯までしっかり覚えているわ。クリームシチューとコンソメスープで、人参やブロッコリー、キャベツが入っていた。シチューには鶏肉、スープにはソーセージもね。それで、お母さんが食器を運び終わって、二階の自分の部屋に行こうとしたときね、お母さん、あ、佳穂のおばあちゃんのことね、佳穂のおばあちゃんが教えてくれたのよ。公園の遊具が古くなって、危ないってこともあって、全部無くなっちゃうって。もちろん、ぞうさんのすべり台も。

 明日から工事が始まるって聞いて、お母さんは慌てて外に飛び出したわ。パジャマだってことも忘れていて、サンダルの片っぽが色違いだってことにも気づかなかった。

 三月といっても、夜はまだちょっぴり肌寒かった。電灯は頼りなげにちかちかしていて、ぞうさんの姿が現れたり消えたりしていた。ぞうさんの目の下にはしわがいっぱい蓄えられていたし、お母さんを見つけたときの声はしゃがれていて、ゴムまりを詰めたトランペットみたいだった。それでも、足を踏み鳴らして鼻を振り回して、喜んでいるっていうのが痛いほど伝わってきた。

 お母さんは、すごく申し訳なくなったの。

 ごめんね。ごめんね。

 もっとお話をしたかったよね。

 もっと一緒に歌いたかったよね。

 もっと一緒に、もっと、一緒に――。

 本当は、お母さんの気持ちだったのかもしれないけど、そういうことをぞうさんに言ったのよ。

 するとね、ぞうさんは私を鼻でつまみ上げて、背中に乗せてくれたのよ。それから、息を思いっきり吸い上げると、『そのままの君で』を歌い始めたの。

 お母さんは「そうよね、私たちの特別な歌だもんね」って言って、一緒に歌った。お日さまが恥ずかしがり屋で、いつまでも顔を出さないでくれたらいいのに。お月さまがでしゃばりで、いつまでも空の真ん中でふんぞり返ってくれていたらいいのに。心地の良いリズムで揺れるぞうさんの背中で、お母さんは子どもになっていたの。

 楽しいときの時間はあっという間に過ぎていくものだけれど、このときだっておんなじだった。お日さまが顔を出すと、ぞうさんは鼻をまっすぐに伸ばして、目をゆっくりと閉じた。ぞうさんの皮膚から温かさが少しずつ消えていった。鼻息も細くなって、匂いもしなくなって、最後には、ただの古びたすべり台に戻ったの。

 お母さんは無言のまますべり下りて、誰にも気づかれないように家に帰って、ベッドに入った。それから、枕に顔を押し付けて、布団を頭までかぶって丸まって、お母さんのお母さんやお父さんにも聞こえないようにして泣いたの。ぞうさんに会った小学生の私、合唱部だった中学生の私、初めての恋をした高校生の私、ぞうさんと全く会わなかった大学生の私、そして、「また明日」の無いお別れをしたそのときの私。全員がわんわんと泣いているような、そんな気持ちだった。

 でもね、悲しいって気持ちだけじゃなかったのよ。ありがとうって気持ちとか、理不尽だって気持ちとか、他にも数えきれないくらいの気持ちが混ざり合っていたの。

 お母さんはね、周りから見たらずっとひとりぼっちの女の子だったと思う。でもね、お母さんはみんなの知らないところで、しっかりと成長していたのよ。多分、ぞうさんに会っていなかったとしても、違う形で、心が育っていたはずなのよ。先生に言われたような、「良い心」がね。

 だから、これはきっと良い涙なんだって、そう思ったの。



「おしまい」

 佳穂のお母さんは本をそっと閉じるように手を叩きました。 だから、大丈夫よ、と小さな頭をなでてあげました。佳穂ははにかんで頷くと、再びお絵描きをする作業に入りました。太い線や細い線、長い線に短い線、まっすぐな線に曲がった線。ちょこちょこと移動して角度を変えながら、いろいろな線を組み合わせて、今にも地面から起き上がってのしのしと歩き出しそうな象を描きました。

「これね、私のぞうさん。私もお母さんとおんなじよ」

「ええ、素敵ね」

 風がぴゅうと吹きました。他の風が梢で縮こまっているつぼみたちに「まだ眠っていてください」と息を吹きつける中で、その風は一人、花を開かせようとはたらきかける気ままな暖かさを持っていました。

 子どもは風の子というけれど、うちの子もやっぱり風の子なんだわ、と、佳穂のお母さんは微笑むのでした。

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