狼の遠吠えは世界にこだまする
第1話 動き出す日常
振るわれる剛腕を薄皮一枚で凌ぐ。
目前に広がる獣の顔は凶悪に歪められ殺意に満ちた瞳が「お前を食い殺す」と告げていた。
しかし動揺はない。一々覚えてなどいられないぐらいには向けられる殺意にも慣れたから。
客観的に見れば、非日常もいいところだ。それが自分にとっての日常になっていることに今更ながらに気づいた。まぁ...気づいたところで何も変わりはしないのだが。
むき出しになった牙でこちらを食い殺そうと獣が動き出すよりも早くこちらの腕が獣の外皮を貫く。
怯む獣、しかし致命傷にはなり得ぬと気づき、痛みに耐えて傷を与えた敵に齧り付こうとした刹那――――勝敗は決した。
「凍結」
薄皮一枚、それが獣が与えられた唯一の傷だった。
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「...もういいですよ」
その声に反応して同行者はゆっくりと草葉の陰からその姿を現した。
「相変わらずスゲぇな坊主は」
無精ひげが似合う中年の男性、命の危険が常に付きまとう迷宮であるにもかかわらずその腰には武器の類は一切なかった。あるのは手に持つ採集用の道具だけだ。
それもそのはず、彼は自分が守るべき護衛対象なのだから。
男性の名は
今回は週に一度の護衛探索の日で必要になる素材を収集するためにスミダダンジョンの8層へと赴いていた。
「では解体の最中は自分は周囲の警戒をしておきます」
「おう。頼んだ」
虎鉄さんが手に持つ採集用の道具の中から解体道具を取り出して早速魔石を取り出す様子を確認してから周囲の警戒のために辺りを見渡し始める。
周囲を警戒しつつ最近大きく変わった自らの探索事情について思いを巡らせることにした。
#####
お見舞いに来てくれた雄二さん達から自分が置かれている立場が思ったよりもめんどくさいことになっていると知ってどうしよかと悩んだのだが、とりあえず暫くダンジョンに潜るのを止めた。
理由は簡単でみはるや楓さんと旅行に行くためだ。みはるが冬休みの間はとにかく色んな事をした。
探索者になってからあまりとれていなかった家族の時間をしっかりと取ることができたのは今までの探索で多少なりとも成果を出せたからだろう。
旅行先ではしゃぐみはると楓さんの笑顔を見れただけでこれまでの努力が報われたような気がした。
そして冬休みを堪能した後に調子を確認しようとダンジョンにソロで潜ったところ、異変に気付いた。
まず、目が良くなった。はるか遠くで休んでいる
次いで鼻が利くようになった。土の匂い、植物の匂い、モンスターの匂い、血の匂い。痕跡の発見が容易になった――どころではない。どれぐらいの距離になにがあるのか。まるで透視でもしているかのように分かるようになった。
さらに耳が良くなった。獣の潜めた息遣いが分かる。遠くで鳴る戦闘音がはっきりと聞こえる。近くで意識的に聞こうとすれば心臓の鼓動音でさえ判別できるほどだ。
そして振動を感じるようになった。これまでにない新しい感覚。空気の流れが、地面の揺らぎが肌を伝って脳へと伝わってくる。
明らかな異常だった。調べたことがないので明確なところは分からないが人間の知覚能力の範疇を超えているようにさえ感じる。
それだけじゃない。身体能力もこれまでとは段違いだ。
どんなふうに力を籠めればいいのか、どんなふうに体を動かせばいいのか、細胞の一つ一つ、筋繊維の一本一本にまで神経が通っているかのような...
それは冬休み前、変異した
しかも、時間を経るごとにその万能感はより鋭敏になり身体能力も極まっていくのだ。
リハビリのつもりで潜った冬休み明けの探索で10層までの間に自分の敵になるようなモンスターはもはや存在しなかった。
襲い来るモンスターたちのどれもが酷くのろい。唯一、鈍いと感じなかったのは
探索中も奇襲を仕掛けようとするモンスターは鋭さを増した五感が見逃さない。
索敵、討伐、索敵、討伐、索敵、討伐、索敵、討伐、索敵、討伐、索敵、討伐、索敵、討伐
気づけば一日の探索で獲得した魔石の総量の自己記録を更新していた。
自身でさえ戸惑うほどの急激な成長。喜ばなかったと言えば、まぁ嘘になる...だけどそれだけじゃなかった。
強すぎる力には相応の対価があった。
リハビリ探索を終えてダンジョンを脱出した直後のことだ。突如として激しい頭痛に襲われた。
突然の事態に困惑し、出入り口の近くで膝を折って呻いていると次に身体中に酷い筋肉痛のような痛みが襲ってきた。
と同時に、全身に広がる虚脱感と三半規管を思いっきりシェイクされたかのような原因不明の酔い。
こみ上げる感覚を我慢できずに吐き出すと、コップ一杯分ほど吐血した。
当然、ロビーにいた探索者やスミダ支部の協会スタッフさん達も騒然としだして大騒ぎになった。
襲い来る不快感と戦いながらなんとか医務室へと運ばれると容体が落ち着くまでそこにいることになった。
とはいえ、その時は未だ原因不明だったものだから医務室に常駐していた医療スタッフさん達にも原因はよく分からないまま。
その後、間を空けながら数日間ダンジョンに潜る度に程度の差はあれ、そうなったことから自身に起こった急激な変化が原因であると理解することが出来た。
脱出後の症状が酷くなるのは決まって身体を酷使した探索の後だった。
反動あるいは副作用のようなものだろう。長い時間ダンジョンに潜ることでも症状がひどくなる事もあったっけか。
深層の探索に向いているのかいないのか...正直、頭を抱えた。潜るほどに凶悪になるダンジョンの環境に対応できるだけの強さを手に入れたのにダンジョンに潜った分だけ身体が悲鳴を上げる。
この身体はダンジョンに潜れば潜るほど死に近づくことになってしまったわけだ。
さすがにこの状態だと無茶はしづらい。なにせ限界が分からないから。
仮に限界が分かったとしてもそれは死と同義だと思う。限界とはつまり耐えられなかった、ということだろうから。
この面倒な体質を理解した翌日には
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「...話は分かった。そういうことなら無理強いはできない」
「すいません」
事情を説明した雄二さんはこちらを気遣ってくれたのだろう。仕方ない、と笑ってくれた。
「気にしないでくれ。アイツらにもしっかり伝えておくよ」
「お願いします...お力にはなれませんでしたがギルド結成は陰ながら応援してます」
「おう!頑張るよ」
話したいことは話し終わったな、そう思って踵を返したときだった。
「紫苑君!」
「...」
立ち止まるも振り返ることはしない。
「なにか力になれることがあったらまた、連絡をくれ。君が俺たちの仲間であることは変わらないんだから」
「...ありがとうございます」
聞こえたかどうかも分からないような小さな声。それが別れ際精一杯の言葉だった。
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「フゥー終わった終わった」
解体作業を終えて腰を伸ばし、軽いストレッチをしている虎鉄さんに声をかける。
「他にはどんな素材が必要なんですか?」
「ちょっと待ってくれよ」
そう言うと虎鉄さんは懐からメモを取り出して少しの間思案してこう言った。
「欲しいものは全部そろったな。欲を言えば鉱石系の素材が欲しいんだけどなぁ」
「スミダではまだ確認されてないですね。他のダンジョンに潜るしかないかと」
他のダンジョン...遠いか、混んでることが追いんだよな。スミダを選んだのがそれほど混んでないっていう理由も含まれてたわけだし。
「だよなぁ...まぁ、採掘系の道具の準備もまだできてないしもう少し後になるか」
少し名残惜しそうではあったけど、無いものはないのだからしょうがない。
本日の目的は達成したということでダンジョンを脱出することにした。
脱出した直後、やはりいつものように頭痛と眩暈に襲われる。
一番酷い時に比べればマシではあるけれど、それでもきついことには変わりないな。ふらつく足取りで人通りの邪魔にならない場所までなんとか移動して壁に手を付いた。
「お、おい?大丈夫か?」
説明していなかったから、何事かと慌てた様子で虎鉄さんが背中をさすってくれる。
鍛冶契約も結んでるわけだし、何の説明もなしだったのは流石にまずかったかな...いつか説明しておいた方がよさそうだ。
「...大丈夫です。少し休ませてもらっていいですか?その後で、換金に行きましょう」
「...分かった」
目を閉じて天を仰ぐように顔を上げる。深呼吸に徹して体調が落ち着くのを待つ。数分程、体調の回復に徹していれば徐々に呼吸が楽になってきた。
「ッフゥー、よし。もう大丈夫です。換金に行きましょう」
「あぁ...なぁ、本当に大丈夫なのか?なんか無理してるんじゃ...」
「後で説明します。でもダンジョンに潜ってるんですから無理なんて今更では?」
「そりゃ...たしかにそうか」
後で説明しないとな、と頭の片隅に留めつつ受付に向かう。受付では豊島さんが長い列を捌いていた。
「はい、換金承りました。素材はどうされますか?」
「素材はこっちで引き取ります。魔石は全て換金して口座にお願いします。いいですか?虎鉄さん」
「おう」
「かしこまりました。それと...大神君はこの後予定はありますか?大神君に会いたいという方が応接室にいらっしゃるんです」
...なんだろう、少しだけ面倒ごとの予感がする。とはいえ今日はみはるの迎えまで時間もある。依頼なら話を聞く時間くらいはあるか。
「あまり遅くならないのであれば大丈夫です」
「でしたら換金が終わった後にお時間をいただきますね。応接室まで案内しますから」
豊島さんはそう言うと、手慣れた様子で換金作業に移った。
換金作業を見届け、素材や魔石の検査結果の書類と鑑定した素材を持って戻ってきた。素材を受け取ると虎鉄さんとはここまでだ。
「そんじゃあな、坊主。今日も助かったよ。さっきのことについては手が空いたときにでも電話してくれ」
「分かりました。次の護衛はまた一週間後でいいですか?」
「おう、もし何か予定が入ったら教えてくれ。素材の収集は切羽詰まった用事ではないから後回しでいい。それと...」
虎鉄さんは来た時には持っていなかった包みを掲げるとこう続けた。
「預かった武器は最優先で手入れをしておく。教えてもらった住所に郵送すればいいんだよな?」
「えぇ、お願いします」
「任せとけ!多分2日後には届けられると思うぜ。じゃあな」
「はい、また」
後ろ姿からでも今日の成果に満足している様子が伝わってくるルンルン気分の虎鉄さんが支部を出ていくのを見届けた後、窓口を他の人と代わった豊島さんに連れられて応接室へと向かった。
#####
「それで自分に会いたいっていうのは...?」
協会スタッフ以外立ち入り禁止の支部の廊下を通りながら誰が尋ねてきたのか質問してみる。
「えっとね...ちょっと予想外の大物だからあんまり大きな声で言えないんだけど――」
そういうと耳元に顔を近づけて自分にだけ聞こえるような声量で件の人物の名を呟いた。
「!...訪ねてきた理由についてはなんて言ってるんですか?」
「詳しくは応接室で話してくれると思う。一応、私と課長も立ち会うからそんなに警戒しないでも良いと思うよ...多分」
「課長...?」
「ほら、この前秘匿依頼の時にお話ししてた女性。あの人が私たち受付嬢のトップの人なの。中条 美佳子さんって方だよ」
「あぁ、あの人が」
そんな風に話をしていると案内された応接室へとたどり着いた。...ドアを開けるのを少しだけ躊躇う。
教えてもらった名前に頭の中が疑問符で覆いつくされそうだ。なんでそんな大物が...?
とはいえ、いつまでも迷っていても事態は進展しない。覚悟を決めて応接室のドアを開けるとそこには――
「おっ...やぁっと会えたね」
アメリカの国営探索者でダンジョン研究の第一人者、ソフィア・G・ロゥクーラ博士がいた。
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