さよなら風たちの日々 最終章―5 (連載46)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第46話 


             【9】


 ぼくは深呼吸して心を落ち着かせたあと、ヒロミに言った。

「ヒロミ。気がつかなかったのか。おまえのそばにはいつも、神さまがいたことを」

「その神さまが、おまえを守ってくれていたんだよ」

 ヒロミがぼくから目を離さないでいる。ぼくの次の言葉を待っているのだ。

 ヒロミは、人が隠しておきたい自分の嫌な性格を白日の下にさらけ出してしまうヘンな超能力者なのだという。それをヘンな超能力者と揶揄したヒロミの同級生のセンスには頭が下がってしまう。しかしぼくはそれを一笑に付すことはできない。ぼく自身ヒロミに襲いかかって、レイプまがいのことをしてしまったことがあるし、ヒロミと結婚したあいつにいたっては暴力だ。これが人に隠しておきたい自分の嫌な性格ではなければ何なのだろう。

 では、マリさんの場合はどうだ。マリさんはほんとうは男漁りが大好きな色情狂で、その欲望を満たすために、あいつをヒロミから奪ったのだろうか。

 いや、違う。マリさんはもっと崇高な理由で、ヒロミからあいつを奪ったんだ。

「ヒロミ。いい加減、気づけよ」と、ぼくはもう一度言った。

「おまえは中学生のとき、担任の先生が守護神だったと言ってたよな」

「その守護神はそのあとも、おまえのそばにいたんだ」

「誰だか分かるか」

 ヒロミは分からないとでも言うように、静かに首を振った。ぼくは言葉を続けた。

「マリさんだ。マリさんもおまえの守護神だったんだ」

「マリさんは高校生のときからずうっとおまえのそばにいて、おまえを守り続けていたんだ」

「おまえはあの男に、大事にするから、幸せにするからって言われて、結婚しようとしたんだよな」

「でもそのあと、おれが現れた。マリさんはおれが現れたことでヒロミに相応ふさわしいのは、あいつじゃなくて、おれだと思ったんだ」

 ヒロミは黙って訊いていた。ぼくの次の言葉を待っているのだ。

「だからマリさんは、おまえとあいつを別れさせようとしたんだ」

「そのためにマリさんは、あいつに喫茶店ポールの名前のほんとうの意味を教えた」

「そのついでにマリさんは、その名前の張本人のポールが毎週、喫茶店に来てることも教えたんだ」

「あいつはそれで怒り狂った。それがおまえに対する暴力だ。やつはマリさんの密告とヒロミのヘンな超能力のおかげで、やつの暴力男という本性がむき出しになったんだ。それがあいつの正体なんだ」

 そこまで言って、ヒロミはようやく何かに気づいたようだ。

「ほんとうなの。ほんとうにマリさんはわたしの、守護神だったの」

「だったら、どうして、わたしがひどいことをされてるとき、助けてくれなかったの」

 ヒロミはパラペットの上で、膝を抱えたまま、動こうとはしない。パラペットは十一階建て団地屋上の最も外側を囲んでいる高さ30cmほどのコンクリート製のふちだ。一歩足を踏み間違えると、待っているのは高さ50mからの転落死だ。

 ぼくはそのときふと、ヒロミが上野公園で、上手に植え込みのふちを歩いていたことを思い出した。ひろみはああ見えても、実は意外に運動神経が良くて、バランス感覚も優れているかもしれない。

「神さまはときには、人間に試練を与えるんだ。だけど最後は救いの手を差し伸べてくれるんだ」

 ぼくはまた、ウソをついた。

「マリさんは自分がスケープゴートになって、おまえとあいつを別れさせたんだ」

「分かるか、ヒロミ。マリさんはそのためにあいつと結婚したんだよ。おれとヒロミがうまくいくように、あいつをヒロミから排除したんだよ。結婚するっていう形でな」

 そう力説するぼくに、ヒロミの声が反応した。

「ほんとう、ほんとうなの。マリさんはほんとうにわたしの守護神だったの」

 そして言葉を続けた。

「マリさんはいつだって優しかったよ。いつだってわたしを、助けてくれて、いろんなこと教えてくれてたよ」

「だからわたし、マリさんをほんとうのお姉さんだって、思ってたくらいだったよ」

「ヒロミ。よく考えてみろ。おまえの中学時代の先生は、何という名前だ」

「高橋・・・先生」

「じゃあ訊くけど、マリさんのフルネームは何だ」

 ヒロミは少し考えた。そして答えた。

「高橋・・・マリコ」


              【10】


 ヒロミはようやく、すべてを悟ったようだ。

 そう。ヒロミの守護神は中学生の頃は高橋先生。そのあとヒロミを守っていた守護神は、マリさんこと高橋マリ。これだ。これだったのだ。これがぼくに降りてきた神の啓示だったのだ。

「ほんとう。ほんとうなの。マリさんはほんとうに高橋先生と同じ、わたしの守護神だったの」

 ヒロミはそこまで言うと、なんとゆっくりラペットの上に立ち上がった。そしてヒロミはゆっくりぼくの方まで歩いてくる。

 ぼくは心臓が止まりそうになった。叫びそうになった。また背中に冷たい汗が流れるのが分かった。

 ヒロミ。怖くはないの。一歩間違えれば、転落だよ。即死だよ。硬い地面の上で、血まみれになるんだよ。

 しかしためらっている場合ではない。ぼくは半分やけくそになってパラペットの上に立った。怖くない。絶対落ちない。ぼくは自分に呪文をかけた。ヒロミに神さまがついているんなら、ぼくにだって神さまがついているんだ。だから大丈夫。絶対、大丈夫。


 やがてヒロミがぼくの胸に飛びこんできた。一瞬、ぼくとヒロミの身体がその反動で不安定になる。それでもぼくは何とかヒロミの身体を支え、抱き合った。

 ヒロミは号泣している。声をだして、ぼくの胸で泣き続けている。その姿は幼い少女が、父親の胸でわんわん泣きじゃくるそれに似ていた。。ヒロミ。大丈夫だよ。もう大丈夫だからね。

 ぼくはヒロミの髪を撫でながらつぶやいた。

「ヒロミ。人間は何度も間違いを繰り返す生き物なんだ。だけど何度もやり直すことができる、生き物でもあるんだ」

 それはずいぶん前、ぼくが父親に言われた言葉だった。そうしてぼくたちは、断崖絶壁と変わらないパラペットの上で抱きあうのだった。これはぼくとヒロミが。初めてお互いの意思で抱き合う姿だった。

 好きだったよ。愛していたよ。おまえを初めて体育館で見たときから、ぼくはずうっとおまえを思っていたよ。そうしてぼくは、ぼくの胸で泣きじゃくるヒロミにささやき続けた。


 ねえ。ぼくは頭がおかしくなってしまったんだろうか。頭がどうにかなってしまったんだろうか。

 だってあのときぼくは、長い髪が汗でべっとりと顔に張り付いていていて、泣きはらした目は出目金の目のように腫れあがっていて、おまけに泣きすぎて鼻水まで垂らしているヒロミの顔をだよ、ぼくは世界で一番きれいな顔、美しい顔だって思ってしまったんだもの。


 そのあとぼくはヒロミと抱き合いながら、夜空を仰いだんだ。

 その夜空の厚い雲の切れ目から、ひときわ輝く星が顔を出している。

 ぼくはその星に、あの夏の十和田湖の星々を思ったよ。夜空一面を覆いつく十和田湖の、満天の星々を思ったんだよ。



                           

                           《この物語 続きます》









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