第23話

 光の奔流。そう評する他ない光景を前に、凛太郎は目を見開いた。

 まるで濁流の様に荒れ狂う光。しかし、抗おうにも足がその場に縫い止められてしまったかのように体は動かない。

 やがて、光の先に闇が見えた。

「――――ほうほうほうほう、これはこれはこれは面白い客がやってきたモノだ」

 気付けば、凛太郎は星空の真っただ中に投げ出されていた。

 足場も無く、上も下も、右も左も分からない様な空間に漂う姿は、宛ら海中を漂うクラゲだろうか。

 だが、不安定な体に反して凛太郎の視線はとある一点へと向けられていた。

 彼が見つめる先に居たのは、同じく漆黒の星の海を漂う小柄な影。

 白い体形の分からない裾の解れた全身を覆う外套に、それから頭を覆うフルフェイスの白い仮面。右目の部分に丸い穴、口がある筈の部分に三角形の穴が開いたデザイン。

「…………とりあえず、殴って良いか?」

「ほうほうほうほう!面白い!相手を恐れぬ蛮勇か!それもまた良し」

 何が面白いのか天地逆転しながら空間を漂う小柄な相手を前に、凛太郎は拳を握った。

 足場が無く、どう動いたものか分からないがとりあえず手足の届く範囲に収めればどうとでもなる。

 そう考え右足に力を籠め、

「まあ、待て。儂とてお前さんとやり合うために、ここに連れてきた訳では無い」

 静かな声が遮ってくる。

 先程の興奮を隠せない雰囲気は何処かに消え失せて、代わりに発せられるのは宛ら大樹を前にしたかのような雄大な静けさ。

 真面に話す気になったのか、と凛太郎の拳が解かれた。

「儂は、パルゾという。もっとも、生まれはお前さんよりもはるか昔だがな」

「前置きは要らねぇよ。連れてきたって言ったな?どういう事だ」

「そうカッカするでないわ。ちょいと、最後に誰かと言葉を交わしたいと思っただけよ」

 そう言って、パルゾは徐に懐から一本のパイプを取り出した。

 口に吸い口を咥えてふかせば、白い煙が空間に昇った。

「儂自身、ここまでこの本が残り続けるとは思わなんだ」

「はあ?お前が、持ち主を乗っ取ったんじゃねぇのか?」

「ちと違う。儂の創り上げた本自体、確かにそういう機能もあるが完全に成り代わる機能は持ち合わせておらん。まあ、その他は知らんが」

「……俺が出くわしたのがその手の輩だ。何つったか…………おんぼろ?」

「それはひょっとすると、オンブルじゃないか?」

「あー、そんな名前だった。影ノ魔本だって」

「カッカッカ!成程成程、確かに奴ならば本を手にした相手を取り込み乗っ取る位はするであろうな」

「笑い事じゃねぇよ…………」

 呵々大笑するパルゾに、凛太郎は眉間を揉む。

 既に戦う雰囲気ではないが、ソレはソレ。戻り方も分からない現状、どうする事も出来ない訳で。

「…………で?話ってのは何だよ」

「まあ、そう急くでないわ」

 パイプから白い煙を吐き出して、パルゾは仮面の穴を向けてくる。

「まずは、儂の書いた本について。“万象の魔本”。儂が得意としておった魔法を元に組み上げた」

「万象だ?そりゃまた随分と大層な………」

「カッカッカ!事実として、。儂に成せない事は無かった――――致命的なまでに魔力が無かったがな」

「魔力?」

「さよう。如何なる強力な魔法も、ソレを構成する魔力が無ければ単なる張りぼてでしかない。儂が魔法を使えども、精々が木の枝を生み出す程度のモノ。とてもではないが実用には耐えられん」

 長い呼吸と共に、白い煙が三角の穴から吹き上がる。

「――――だからこそ、儂はこの本を作った」

 その黒い穴は何処を見つめているのか、遠くへと向けられている。

「願わくば、十全に魔法を扱える者に巡り合いたい、とな」

「…………」

「それが、間違いであった」

 深い後悔を滲ませる言葉に、凛太郎は何も言えない。

「本には、保護機能の為に持ち主を生存させ続ける内容を持たせていた……じゃが、まさかとは思わなんだ」

「そいつは、お前の望む所じゃなかったのか?」

「さよう。魔法を扱う事は構わん。じゃが、人の理を歪ませてまで残してほしいなどとは思わんよ……ハァ、やれやれ…………最初から間違っておったのか、それとも歪ませてしまったのか」

 最初の願いはありふれたモノだった。

 折角の魔法に日の目を浴びてほしい。あわよくば誰かを助けることが出来たなら。そんな尊い願い。

 だが、その願いの果てにあったのは一人の人間の生を歪ませるという結果。

「…………良いのかよ、アンタはそれで」

「まあ、な。後はお前さんが、本を処理してくれるのだろう?それで、本当の終いだ」

「ッ、本当に、それで良いのか?そんな後悔抱えて――――」

「小僧」

 熱くなる凛太郎の言葉を、パルゾの言葉が遮る。

「…………ふっ、最後にお前さんのような真っ直ぐなガキに会えた。それだけでも十分と言える」

「でも……!」

「良いか、忘れるな。始まりがどれだけ尊くとも、素晴らしくとも、他者を傷つけ食い物にするような事柄は決して善には成りえない。それらを成したモノたちが、どれだけ己の正当性を声高に語ろうとも、な」

 時間というモノは残酷だ。

 始まりがどれだけ素晴らしくても、時間と共に変質し、腐敗し、最後には崩れ落ちる。最初から最後までいい結果で終わらせようと思うならば、期間を明確に決め、その上で延長なしですっぱりと切らねばならないのだ。

 出会って数時間と経っていないが、凛太郎にはパルゾの言葉が無視できない。

 それは、魔法とかそういうものの効果ではなく、故郷の老人から受ける訓示にも似ているからかもしれない。

 ぷかり、と白い煙の輪が浮かんだ。

「さて、少し長くはなったがここまでとしよう」

 パルゾがそう言うと同時に、凛太郎の体は勢いよく後ろへと引っ張られていく。

 反射的に手を伸ばしたが、その指先は空を切る。

「くそが……!」

「カッカッカ!足掻くのもまた、若人の特権よ。じゃが、その手は生者へと使ってやれ。死にぞこないを救えるほどお前さんの手も暇ではないだろうからな」

「――――ッ!!」

 光の筒の中へと消えていく凛太郎。

 その最後に何かを叫んでいたようだが、パルゾの耳には届かなかった。

 再び一人になった空間で、彼は一人胡坐をかいて宙を漂う。

 一度書きあげられた魔本を、途中修正する事は著者にしかできない。その著者が死んでしまえば、どれだけの不具合が生じていようとも魔本は只管に暴走し続ける事になるだろう。

 パルゾが創り出した“万象ノ魔本”もその一つ。

 その効力は、魔力を利用したあらゆるモノの創造にある。元々は、パルゾ自身が得意としていた魔法で現代の言葉で言えば古代魔法ロストマジックの一角に数えられる。

 しかし、彼には魔力が足りなかった。十全に扱うには、湯水のごとく扱えるレベルの魔力が必要だったのだ。

 空間を漂いながら、パルゾは笑う。

「ああ、ああ、面白いわっぱであったなぁ」

 魔力はさほどでもないが、それを補って余りある宛ら太陽の様に生命力にあふれた少年だった。

「出来る事なら、儂が現役の時に会いたかったものだ。カッカッカ、あ奴ならば賢人共が相手でもいい勝負をしそうだわい」

 惜しい、と思いながらも最期の思い出として見るならば上々だろう。

 願わくば次の人生を。

 終わりは目の前に迫っていた。



「――――ッ」

 意識が戻る。

 目の前にあった筈の光の奔流は消えて、代わりに視界に飛び込んでくるのは殺風景な部屋と、それから干からびた男の眠るベッド。

 その男の抱えた本へと手を伸ばして触れた体勢で、凛太郎は固まっていたらしい。

「リンタロー?」

「おい、どうした」

「…………いや」

 声を掛けてきた二人の様子から、さっきのアレは夢だったのだろうか、と思えて来たりする。

「なあ、センセイ」

「どうした」

「この魔本のタイトルは分かってるのか?」

「ああ。その魔本は、“万象ノ魔本”と呼ばれている。凄まじい力を有するが、魔力が高い者にしか扱えない代物だ」

「そう、か…………」

 夢じゃなかった。どうやったのかは分からないが、彼が本に触れた瞬間意識だけを呼び込んだのだろう。

 一瞬の躊躇いが浮かんだ。ほんの短時間の会話ではあったが、それでもこの本を創り上げたパルゾの気持ちが何となく分かってしまったから。

 だが同時に、件の彼の言葉がその躊躇いを許さない。

「ふぅ」

 凛太郎は一つ息を吐き出し、魔本を手に取った。オンブルの魔本を破壊した時の様に背表紙を上にして、横向きにする。

 上を向いた背表紙を両手で掴み、その指先へと力を込めながら勢いよく前後へと引き裂いた。

 瞬間、精気の欠片も感じられなかった男の目が、カッと開かれる。

 瑞々しさの欠片も無い眼球が虚空を嘗め、そしてベッドの傍らに立つ凛太郎へと向けられた。

――――ありがとう

 声は出ない。ただ、ほんの少しの口の形だけがその言葉を僅かにだけ伝える。

 そして、その次の瞬間には男の体は砂となってシーツに広がった。

 皮膚も毛も、血も内臓も、人として生きてきたであろう肉体の面影が一切見つけられない砂の塊。

 この日、一人の男の魂が解放された。

 数百年を縛られた人生。それが良いモノであったのか悪いモノであったのか、それは当人のみぞ知る。

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