第19話
凛太郎がオンブルとの一対一を行っていた頃、時を同じくしてスピカは一人でこの世界を駆けていた。
戦いの場には、向かえない。自分が言っても足手纏いになってしまうと考えたから。
彼女が探していたのは、この世界の端。
オンブルの言葉をそのままに受け取るならば、この世界は成長し続ける結界の様なもの。今も大きくなり続けているのだろう。
しかし、その拡大の速度というのは緩慢だろうと呼んだ。
というのも、魔法は万能のようで、万能ではない。
属性による区分、等級による区分は勿論の事。魔法の範囲や威力、効果などによって対価を求められる場合があるのだ。
(
研究の進んでいない
現代の魔法に通じる類似性とでもいうべき部分は確かにあるのだ。
今回で言えば、結界の分野。
実の所、結界の魔法で最も脆い部分は境界線だったりする。
正確には、硬くも脆いのだ。
多くの人々が結界を“壁”として認識している。しかし、その本質は境界線或いは区切り。
スピカの狙いは、この境界線を一部でも良いので破壊する事。そうすれば、少なからずこの世界に痛打を与えられるのでは、と考えた。
どの方向に進めばいいのか分からないが、円形に広がると仮定して一方向へと駆け続ける。
駆けて、駆けて、駆けて。息も荒れてきた頃、不意に視界の端に何かが掠めた。
思わずそちらへと視線が引っ張られ、足が止まるとハッキリする。
それは、黒の水面に仰向けに倒れた誰か。その誰かの周りは、不自然なまでに綺麗サッパリとしており、ただただ波紋だけが広がっている。
一分一秒を争うような状況だ。こうしている間にも、侵食は続いており結界の端に辿り着ける可能性というモノが遠のき続けている。
しかし、
「ッ!」
見捨てられない。
進行のベクトルを九十度折って、彼女の足は倒れている誰かの下へ。
駆けよれば、ソレが誰なのかスピカには分かった。というか、
「ッ、この人、さっきの…………」
彼女がこの世界に放り込まれる原因となった少年だった。
手を腹の上で組んでぐったりと目を閉じて横たわる彼。その手の下に支えられるようにして、一冊の黒い本が置かれていた。
精気の感じられない死人のような顔色だが、それでも僅かに上下する胸部が彼が生きている事を主張する。
背負って駆けるには、少し無茶がある。しかし、その一方でこの発見は千載一遇チャンスでもあった。
「この本……これをどうにかできれば……!」
オンブルは言っていた。本こそが自分自身である、と。
そんな魔法は聞いた事が無いスピカではあるが、現実問題世界を塗り替える様な魔法を行使するような相手なのだ。自身の知識だけに則った対応だけでは、対処しきれないと判断。
だが、問題はまだある。
そもそも、このレベルの魔本を破壊できない。
魔剣が、“剣の形をした魔法”であるのなら、魔本は“本の形をした魔法”。
数千年単位で現存している時点で、
そんな強大な魔法をどうにかできる程、スピカの力は強くない。素質はあれども、今この瞬間にその出力を発揮する事はまず不可能だ。
どうするか。そう考えこんだ所で不意に鼓膜がとある音を聞き取った。
風を切る音。音の出所を探ろうと周囲を見渡す、という所でソレはスピカたちの近くの黒い水面へと着水。大きな水柱を上げた。
すわ、オンブルが追撃しに来たのか、と身を固くするスピカだが収まった水飛沫の中に居たのは別の人物。
「あー……クソッ。出鱈目しやがる」
「……リンタロー?」
「んお?よお、スピカ」
片手を挙げて軽い調子で返事をした凛太郎。その姿は、先に見た時よりもボロッちくなっており、何より、
「リンタロー、ソレ……」
「ん?……あ、鼻血か。久しぶりだな」
スピカの指摘を受けて親指で鼻の孔の下を拭う。その指の腹に付いた血を見て、凛太郎は眉をしかめた。
彼の体は強靭無比ではあるものの、だからといって不死不滅の無敵の存在ではない。
何処まで行っても生物学上の特性からは逃れられないし、血管が切れれば血も流れる。出血自体も、回数は少なくとも経験がない訳では無かった。
「にしても、どうするか」
鼻血を拭った凛太郎は改めて、自身が吹っ飛ばされてきた方向へと目を向け頭を掻く。
つられてそちらを見たスピカは、目を見開いて同時にその顔色を青くした。
『Ooooooooo……!!』
巨大な怪物が迫ってくる。それも目算で、学院の校舎よりも更に巨大な漆黒の怪物が。
足は無く、黒い水面と一体化した胴体を持ち、両手は関節の区分が無く平らでありながら、その指先は鋭く、鋭く尖っていた。
頭部には三本の角のような突起を持ち、顔と首の区別は無いかのように一体化。
顔には、眼球や鼻などの器官は無く、目と思しき鋭い光の亀裂と、デフォルメされた牙のようなぎざぎざの亀裂が口の様に開かれているのみ。
思わず、スピカは真っ青な顔色のままに、この状況を作ったであろう
「な、なななな何あれ何あれ何あれ!?何をやったのリンタロー!?」
「いや、な。思いっきり一撃噛ましたら、アイツの頭が吹っ飛んだんだよ。木端微塵に。で、急に苦しみ出したと思ったら、あそこまでデカくなった」
「えぇ……」
「んで、どうにかこうにか畳めないかと思ったんだけどな……いやー、ありゃ駄目だ。向こうは触ろうと思えば触れて、逆にこっちからの攻撃は透かしてくる。見た目相応の怪力だし……はっはっは、参った参った」
「笑ってる場合!?明らかに、呼び起こしちゃいけない相手だよ、アレ!?」
HAHAHA、と笑う凛太郎の肩をゆすって、スピカは叫ぶ。
先程まで確かにあった人間性とでもいうべき部分が綺麗サッパリ消え去っている上に、ここは明確な逃げ場のない空間の中。
肩をゆすられながら、不意に凛太郎の視線が横たわる少年へと向けられる。
「……で?こいつ誰だ?」
「えっと…………まあ、今回の件のキッカケの人、かな……」
「成程?じゃあ、コイツに魔法を解かせれば今回の件も片が付くって事か?」
「どう、だろう……そもそも、この人は多分魔力と生命力を吸われてる状態なんだ。この状態から、起こすのはボクには出来ないよ…………」
「なら、どうするよ。流石に逃げ回るのが得策とは俺も思えねぇぞ?」
チラリと視線を送る先に居る怪物は、ゆっくりとしかし着実に迫ってくる。巨大化した影響か、動きは緩慢。それでも凛太郎がぶっ飛ばされたのは、相手が本能的に自身の体の使い方を把握して的確に彼の攻撃を透かしてくるからだろう。
凛太郎が二人を抱えて逃げ回る事は可能だろう。だが、ソレが永遠に持つと言えるほど楽観視できる状況ではない。
であるから、
「…………方法はあるんだ」
スピカは、一か八かに賭ける。
手を伸ばしたのは、少年の手の内にあった魔本。
「そいつは……」
「本物かは、分からないけど。この本をどうにかできれば何か起きると思うんだ」
スピカが思い出すのは、凛太郎がオンブルへと殴り掛かった時の事。
オンブルは、この魔本を一度も出そうともしなかった。自分が追い込まれている状況でも、だ。
ここで彼女は仮説を立てる。というか、魔本に何かが起きれば彼もただでは済まないのだろう、と。
そして、
「ボクじゃ、どうにもできない。でも、リンタロー。君なら、もしかすると…………」
「とりあえず、その本をぶっ壊せば良い訳だな?」
「うん」
頷いて差し出される魔本。
受け取った凛太郎は、徐にページに親指を差し込むと真ん中あたりで本を左右に開いた。
そして、
「…………ふんっ!!」
気合いと共に左右に勢いよく引っ張る。
魔本は、“本の形をした魔法”。他の魔法に対する耐性は高く、並大抵の魔法では傷をつける事すらも難しいかもしれない。
その一方で、魔法でありながら本としての特性もまた引きついでいる。
火の中にくべたり、鋏で切りつけたりしても燃えにくかったり、跡が付く程度で切れにくかったりする特性こそあれども、それでも本は本。
強すぎる力に左右から引かれればどうなるか。
『Giiiii……!?』
怪物の体が大きくビクリと震える。
凛太郎の手の中で、魔本は背表紙から真っ二つに引き裂かれていた。
出鱈目に明滅する本の残骸。それらを重ね合わせて、今度は表紙を自分に向けるようにして横向きに持つ。
手をかけるのは、背表紙の部分。本が裂けてギザギザになってしまった部分で手をとなり合わせる様に掴んで、
「すー…………シャアッ!!」
前後へと勢いよく手を動かした。
哀れ、今度は表紙の真ん中あたりで真っ二つに裂かれてしまう魔本。
任せておいてアレだが、スピカはその光景を見て引いていた。
当然だろう。数百ページある本を、閉じた状態で真っ二つに素手で引き裂いたのだから。馬鹿力とかそんな話ではなく、人間業ではない。
大きく明滅した魔本は、それっきり光を完全に失ってしまう。
同時に、
『A……AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!?!?!?!?』
怪物の絶叫が響き渡る。
頭を抱えてのたうち回り、偽物の空へと向けて吠え喚く。
しかし、どうしようもない。オンブルという過去の遺物は、魔本があって初めて存在出来る残滓でしかなかったから。
本が完全に破壊され、読み物としての機能を喪失した事によって存在の維持も出来なくなる。
それ即ち、この空間の崩壊も表している訳で。
空に亀裂が走り、瓦礫は粟立って地盤の亀裂へと流れて消えていく黒い水面と共に消えていく。
そして――――
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