第17話

 突如破壊された平和な休日。

「……これも、魔法なのか?」

 大食堂を抜けてソレを見つけた時の、凛太郎のセリフである。

 彼だけではなく、食堂で食事をとっていた生徒たちは揃ってこの場に居た。

 彼らが見たのは、憩いの場である噴水広場を中心として展開された巨大な黒い球体型の空間。

 下部の二割程が地面に沈み、まるで地下水がしみだしてくるように黒い何かが周囲を浸食。それに比例するように球体も少しずつ大きくなっていた。

 迫ってくる黒を前に、マオは常の笑みを消して眉根を寄せる。

「これ、水じゃないねぇ…………影?」

「影ぇ?…………影はこんな動きしねぇだろ」

「あたしだって分かんにゃいの。ただ……」

 改めて、マオは黒い球体を見る。

「……まるで古代魔法ロストマジックみたいって思う」

 小さな呟きだったが、聞こえた者達は息を呑んだ。

 浸食は徐々に進んでいる。しかも留まるところを知らない辺り、このアールスノヴァ魔導学院のある浮遊島そのものを完全に飲み込みかねないとも思えてしまう。

「――――離れてください」

 ざわめきが広がる中、凛とした声に注目が集まった。

 厳しい表情を顔に張り付けたフィスィだ。常の穏やかな様子は鳴りを潜めて、緊張感が漂ってくる。

「異常事態として教師陣への通報を済ませました。幸い、今日は休日。多くの生徒が遊びに出ている事も功を奏しましたね。とにかく、この場は封鎖します」

 言うなり、するりとフィスィの髪が解けた。

 ほどけた髪はまるで蛇の様にゆらゆらと宙を蛇行して進み、地面へと向かう。そして、毛先が地面に接すると同時に素早く潜り込み足元が大きく揺れた。

「“ツリープロテクト・スフィア”」

 広がる浸食と球体を阻む様にして現れる巨木の壁。

 樹木は互いに絡み合いながら三百六十度包み込むようににして伸びあがっていく。

「すっげ……」

「皆さんも離れますよ。一時的な処置です」

「うっ…………ん?」

 頷こうとして、凛太郎は何かに気付く。

 黒い球体にほんの一瞬だけ光が灯った様に見えたのだ。無論、気のせいの可能性は捨てきれないし、見間違いだろうと切り捨ててもおかしくない。

「……生徒会長先輩」

「はい?」

「アレに巻き込まれた奴って居るんですかね?」

「そうですね………恐らく、この事態を起こした生徒が一人。それから、申請が出ておらず、今学院で魔力を感知できない生徒が一人、でしょうか」

「…………」

 血の気が引いた。同時に、視界の端に今まさに樹木の壁の向こう側へと消えていく黒い球体のてっぺんが見えた。

 瞬間、体は動いていた。

「凛太郎君!?」

 フィスィの驚いた声が響くが、足は止まらない。

 思い過ごしなら、良い。見間違いなら、良い。

 だが、そうでないのなら、

「――――待ってろ、スピカ……!」

 そこが死地だろうと関係ない。



 駆ける、駆ける、駆ける。

『今度ハ、カクレンボカァ?クックク、ドコダロウナァ?』

 身を隠した瓦礫の向こうから聞こえる声に、スピカは震えが隠せない。呼吸音すらも出せない、と口を両手で押さえて震える事しかできなかった。

 この空間に囚われて、彼女は宛ら猫に甚振られるネズミの気分を味あわされ続けている。

 魔法は通じない。仮に不意を打とうとしても、そもそも実力差が如何ともしがたい為に意味を成さない。

 今もそうだ。隠れてはいるが、オンブルにはバレている。バレている上で、敢えて見逃され只管な恐怖を植え付けられていた。

『――――バァッ!!』

「ひっ……!」

 今もそうだ。声と共に眼前に突然現れたオンブルの仮面頭。

 目の部分である穴は、その先にある筈の眼球が確認できず、只管の暗闇が広がっている。

『サア、次ハ何ヲスル?』

「………ッ、あ……な、なんで…………」

『ウン?』

「何で、ボクを殺さないんだ……その力なら、簡単に…………」

 そう、スピカの絶望を深くするのは正にコレ。

 容易く自分を殺せるほどの力を持ちながら、驚かし、追い詰め、嬲る。そして逃げるに障らない程度に追い立てる。

 この繰り返しは、容易に心を鑢掛けの様に削っていった。

 怯える少女を前に悪意は、

『クックク……』

 嗤う。

 仮面の口と思しき部分に三日月型の亀裂が走り、まるで口角が裂けて笑っているかのような顔面がスピカへと向けられる。

『――――暇ツブシサ』

 クスクス、ケタケタ、何処からともなく薄ら寒い笑い声が響いてくる。

『弱体化シテイル今ノ我デハ、コノ浮遊島ノ全テヲ取リコムニハ少々時ガ必要トナル。何カ手慰ミヲ、ト考エテイルトコロニ小娘、貴様ガ来タノダ』

 突きつけられる黒い指先。その指を構成するのは、いやそもそも今のオンブルの体を構成するのは影の粒子とも言うべきもの。

 正に、怪物。

「ッ……」

『ソラ、話ハ終ワリダ。モット、我ヲ愉シマセロ!』

 逃げろ、抗え、と怪物オンブルはスピカに迫る。

 だが、どうしろというのか。

 スピカ・ヴィルゴーは、年の割には優秀な魔導士の卵ではあれども、それでも十代半ばの少女でしかない。

 一方で相手は、歴史の闇に放り捨てられようとも伝説的な存在である賢者と争った魔導士の成れの果てだ。全盛期でなくとも、並大抵の魔導士など一蹴してしまう。

 端的に言えば、詰んでいた。先に待っているのは、明確な未来だけでありどれだけ抗おうとも相手の気紛れ一つでその結末は訪れる。

(…………リンタロー……)

 絶望の中で思い出すのは友人の事。

 あの時も、助けてくれた。その背中は、眩しくて、頼もしくて、

(もう一度だけ……会えたら…………)

 瓦礫に預けた背中は上がってくれない。もう立ち上がる気力もない。

 人は、どれだけ肉体が元気であろうとも、精神がへし折れてしまえば途端に真っすぐ歩くことは愚か、立ち上がる事すらできなくなる。

 死にたくない、と叫ぶ本能と。どうせ死ぬ、と諦めてしまった理性。

 一方で絶望していく少女を見下ろす、怪物オンブルはため息を零していた。

『詰マラン……アア、ンン!……漸く、馴染んできたか…」

 ザラついていた声に生き物然とした張りが現れる。

 未だに見た目は怪物と言っても過言では無いものだが、それはつまり生物としての性質を得る、いや取り戻し始めている事に他ならない。

 そして、オンブルはその突き付けた指へと僅かに魔力を集める。

 遊び終わった玩具被害者の扱いなど、どうなるか想像に難くない。

「“ファン――――む?」

 今まさに、消し去らんと魔法を放つ寸前であったオンブルは顔を上げた。

 この世界は、言うなれば彼其の物。例え視界が通らずとも、何かしらの異物が入り込めば知覚する事自体造作もない。

 そんな世界に、新たなが紛れ込んできた。

「スピカーーーーーーーッッッ!!!」

「ッ!リン、タロー…………」

 爆音とも取れる大声と共に自分の名が響き、スピカの瞳から雫が溢れた。

 彼はいつだって、自分のピンチに駆けつけてくれる。

 ほんの少し安心が出来たからか、体から力が抜けて恐怖が揺らぐ。

 恐怖と絶望で狭まっていた視界が急に開けて、同時に目の前のオンブルの姿も良く見えた。

 彼は今、正に自身のフィールドへと飛び込んできた新しい玩具獲物へと意識が向いている。

 一瞬の隙だった。

「――――“スターグラディウス”ッ!!」

「なに……くっ!」

 スピカのオンブルへと向けられた右手の平より、極光の刃が放たれる。

 圧縮された結果、光線魔法スターライトに比べれば射程は落ちてしまうが、その分破壊力は増す。

 如何に大魔導士であろうとも、油断している状態で尚且つ至近距離の弱点属性の魔法を受ければ少なからずダメージがある。

 飛び下がったオンブルは、その結果として突き出していた右腕を大きく光によって抉られる事となった。

 回復は、可能だ。如何に弱点であろうとも、この世界はオンブル自身であるのだから。肉体でもない身体を構成し直す事など片手間に出来る。

 だが、ソレはソレ。再生できると言えども、元来持ち合わせている高すぎるプライドを逆撫でされる形となる訳で、

「こ、こここここんの……小娘がァああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!」

 激昂。超常的な態度は何処へやら。そこにあるのは、絶大な力を私利私欲のために振り回す器の小さな男の姿。

「許さん!許さん許さん許さん許さん許さん許さん~~~~~ッ、許ッさん!!!死すらも生温い絶望と苦痛の中でのたうち、死に絶えるが――――」

「うるせぇッ!!!」

 激情のままにスピカを消し潰さんとしたオンブルだったが、その直前に横合いから突っ込んできた暴力の一撃が中断させて来る。

 吹っ飛ぶ、フルフェイスの仮面。霧散する黒い頭。

 そして、

「…………リンタロー……」

 スピカの目の前に降り立った大きな背中。

 諸肌脱ぎとなり、惜しげもなく晒された上半身は宛ら彫像の様に陰影のくっきり刻まれた引き締まった筋肉を纏っている。

 その一歩に、一切の躊躇をしない無鉄砲馬鹿の降臨だ。

 

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