第16話
その日、スピカは一人だった。
せっかくの休日ではあるものの、申請してまで街に下りる用事もない。
何より、下手に学院を出て動き回ると彼女の身に危険が降りかかる可能性が否定できないのだ。主に、故郷関連で。
という訳で、仕立ての良い白いシャツに、黒のショートパンツ、黒のハイソックスにブーツを履いて学院内を歩き回っている所。
(リンタローでも探そうかな)
一人で見て回る事にも少し飽きてきた頃、彼女はそんな事を考えていた。
ふとした瞬間に、思い浮かぶ黒髪黒目の少年。
魔法に関してはド素人も良い所で、初級魔法ですらも未だに満足には使えない。だが、それを補って余りあるフィジカルがある事もスピカは知っている。
何より、自分に寄り添ってくれたはじめての友達だ。意識しない方が難しい。
彼の事を考えながら歩いていれば、自然と校舎へと向けて足も向く。
巨大な城のようなアールスノヴァ魔導学院の学舎ではあるが、同時にその周りに有しているスペースも結構な広さを誇る。
噴水のある広場を中心として、八方へと伸びる道があり、そのうち三つは学舎へと通じ、その他にも寮や競技会場、図書館塔にも通じる。
そしてそれら道を彩るのが季節の草花や、よく手入れされた生垣に制作者不明の石像含めたモニュメント。
見通しは少し悪いが、常に数人の庭師が手入れしており景観は素晴らしい。
そんな道の一つを通ってスピカは、噴水広場へと差し掛かった。街へと降りている者が多いのか憩いのスペースでもあるここもガランとした印象を受ける。
「うん?」
だが、そのスペースへと足を踏み入れる直前、スピカは首を傾げて立ち止まる。
彼女が見つけたのは噴水の前に立つ一人の男子生徒だった。
休日に珍しい制服姿である、巻かれたネクタイの色は黄色。二年生だ。
気にかかったのは、その表情。青白いとも言えるこけた頬にこびりついた目の下の隈。くすんで艶の失せた金髪は、まるで枯れてしまった花の様に頼りなく。纏う雰囲気は重苦しい。
明らかに真面ではない様子だが、スピカは意を決したように彼へと声を掛けていた。見捨てることが出来なかったのだ。
「あ、あのー……大丈夫ですか?」
恐る恐る声を掛ける。ついでに、近付いたから気付いたが、スピカの向かってきた方向からは死角になる様にして彼は一冊の本をその左手に握っていた。
声が届いたのかピクリとその頭が揺れて、
「ひっ――――!」
グリン、とその顔が下から覗き込む様にして窺っていたスピカへと向けられた。
生気の無い見た目に反して、その瞳は尋常ではないほどに血走って、そしてギラギラとしていた。
思わず漏れた悲鳴を口元を押さえて止めて、スピカは後ろへと一歩後ずさる。
恐ろしかった。森でリンドヴルムと相対した時とはまた違う、上位生物に対する恐怖ではなく、人間が有する狂気に対する恐怖。
狂っている。目の前の先輩は、完全に狂いきっている。だが、背を向けて一目散に逃げるという選択肢をスピカは取れずにいた。
本能的に理解してしまったのだ。背を向けて遮二無二逃げ出せばどうなってしまうのかを。
蛇に睨まれた蛙。捕食者を前にした被食者の生存確率は、被食者の生への渇望が捕食者のソレを上回れるか否かにかかっている。
そして、
「――――オ、マエも……俺ヲ馬鹿にスル……」
掠れたそして、まるで言葉そのものに砂嵐でも起きているかのようなノイズと共に、ひび割れた唇から言葉が発せられた。
ソレは最早、言語というよりも不協和音を辛うじて言語という形に抑え込んだかのよう。
同時に、彼の手にあった本が怪しい光を宿すと独りでに動き出す。
空中に浮かび、彼の胸の高さ辺りまで上がると、勢いよく表紙が開かれページが勢いよく捲られていく。
明らかに本一冊に収まる様なページ数ではないのだが、翻り続けるページは止まる様子を見せない。寧ろ、そのページ一枚一枚にぼんやりとした薄暗い紫色の光が灯り、表紙、背表紙、裏表紙に紫色の亀裂が走っていった。
彼の両手が持ち上げられる。
「さあ、起動シロ“影ノ魔本”ヨ!」
瞬間、浮かぶ本より眩い光が発せられ噴水広場は白黒に染め上げられていた。
*
魔力を通せば魔法が使える事には変わりない。だが、もう一つ別の機能もある。
それが、主従システム。
本を読み通す事。これによって契約が自動的に結ばれ、本に記された魔法が扱えるようになるのだ。
その力は、やはり絶大。魔剣等にも負けず劣らずの圧倒的な被害力を有していた。
「……っ」
眩い光を受けて顔を庇っていた両腕の隙間から前を除いて、スピカは一人息を呑む。
世界は一変していた。
青空が広がっていた空は、まるで空っぽになってしまったかのように真っ白。
一方で手入れの行き届いていた筈の噴水広場や庭園は消えて黒一色の水面の様に揺らぐ足元。
スピカの足が沈む気配はないが、その足裏からは存在を主張するように波紋が広がる。
そして灰色の残骸たち。それは、石材建築であったり、木造建築であったり様々だが、共通しているのは原形を辛うじて留める程度で破壊されている点だろう。
何より気になるのが、黒一色の水面から絶えずあちこちから揺らいで浮かび上がる黒い靄の様なもの。
そんな世界に、ポツンとスピカは立っていた。
「こ、ここは…………」
『ク、クク……ククク…………』
呆然とするスピカの耳に届く、掠れて歪んだ嗤い声。
『ヨウコソ……我ガ世界ヘ』
ノイズが混じっているが、ソレは確かに先程までスピカ相対していた少年の声。だが同時に、深く重い地の底から響くような低音が混じってもいた。
『漸クダ……漸ク、ココカラ始マル』
「だ、誰なんだい……キミは…………」
『アア……アア……アア、アア!!憎キ八賢人!憎シ闇ノ賢人ヨ!!アイツ、サエ!居ナケレバ!!!』
声が荒れると共に、世界もまた震える。
打開策など欠片も見つけられない現状、恐怖を押し殺してスピカは声から情報を精査していく。
(八賢人………?それも、何で闇だけを……)
数千年前の混沌の時代を止めた八人の賢者は、尊敬の念を持って崇められる存在でもある。
しかし、その一方で宗教的に、或いは文化などの側面から相容れない立場の人間というのは存在してもいた。
この辺りに関しては、仕方がないと言われてしまえばそれまでだろう。この世の全ての人々に百パーセント受け入れられる存在など、何処にも無いのだから。
(考えろ、考えろ、考えろ!逃げられないとしても、思考を捨てるな……!)
思い当たる節はあった。昔読んだ一冊。
世界的な偉業を成した八人の賢者たちを光とするならば、彼らの光に焼かれた、或いは影へと追いやられた者達が居るのだと。
「……………………オンブル」
『!』
スピカが小さく呟いた言葉に、怨嗟と呪詛を吐き続けていた声が止まる。
同時に、この空間に引き込まれて初めて彼女へと意識が向けられ、ソレが視線となって集められた。
『ホウ……ホウホウホウホウ!ソウダ!ソウトモ!ソウダトモ!我ガ
「闇の賢者、キュリルと争った魔導士」
『――――然リ!!!』
爆音とも言える反響を持って、ソレは現れる。
スピカの前方。崩れた教会の残った屋根の先端に黒い水面より昇る黒い塊が幾つも集まったかと思えば、象るのは人型。
ボロボロの黒いローブを纏い、首から下げるのは趣味の悪いレリーフのあしらわれた首飾り。
何よりその頭部。どうやって被っているのか頭をすっぽりと覆うフルフェイスでありながらどこにも継ぎ目が無く、三本の角と目の位置に空いた黒い穴が開いた仮面を被っていた。
仮面の男、オンブルはその両手を高々と掲げる。
『ドレホドノ時ヲ過ゴシタカ……ダガ!我ハコウシテ蘇ッタノダ!』
「……先輩は?」
『ム?コレハ貴様ノ知リ合イカ?…………クックク……バカナ子供ハ、御シヤスクテ助カル』
何が面白いのか、オンブルは肩を震わせると不意にその左手を緩く横へと振る。
すると、あの真っ黒な表紙の本がどこからともなく現れて彼の前にページを開いて浮遊するではないか。
『魔本ハ、単ナル魔道具デハナイ。コノ本ハ、我其ソ物ナノダカラ』
オンブルは、そう言って嗤った。
バカな子供を誑かすのは難しい事ではない。問題は、自分と波長の合う相手でなければそもそもコンタクトが取れない点だろう。
最初から、影ノ魔本はアールスノヴァ魔導学院にあった訳では無いのだ。長い年月をかけて、波長の合う相手を洗脳して徐々に徐々に近づき、そして入り込んだ。
悪意は、嗤う。
『クックク……ココカラ、我ノ復讐ガ始マルノダ。コノ浮遊島ハ、我ノ拠点トシテコノ“影ノ世界”ニ飲ミ込ンデクレル』
「ッ!やらせる訳ないだろ!!」
それは、小さな正義感か。両手を向けて魔力を込める。
「“スターライト”ッ!!」
放たれる光線は一直線に空を突き進み、悪意を襲う。
だが、
『児戯ニ付キ合ウツモリハナイゾ』
アッサリと光線はオンブルの目の前に集まった影の塊に衝突し、そして排水溝に水を流すように飲み込まれてしまう。
魔法の属性の内、光と闇の属性は少々特殊とされる。
この二つは、互いに弱点であり威力が同程度であるなら衝突と同時に互いが互いに打ち消し合うという現象が起きる。
オンブルが扱うのは、闇に近い影。本来ならば、光は通常の闇以上に天敵である、のだが敗れたといえども過去に闇の賢者と張り合った魔導士だ。格が違う。
影が溢れ、立ち上がっていく。
『満チヨ……満チヨ……!満チヨ……ッ!!影ヨ溢レ染メ上ゲヨォ!我ノ怨嗟ヲ孕ンデ満チ溢レヨォオオオオオオオオッッッ!!!』
狂気は、加速する。
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