第9話

 蛇竜リンドヴルム。最大全長ともなれば、その巨体は山を蜷局とぐろで包む事も出来る、何て事もまことしやかに囁かれる。

「GaaaaaaAAAAAAAAAAAA!!!」

 咆哮が森に響く。

 攻撃でも何でもない、ただの声。ただそれだけで、大気は大きく振動しリンドヴルムが現れる際に薙ぎ倒される事の無かった樹木の幹に亀裂が走る。

 ドレイクという種族は、魔法生物の中でも上位に位置する存在だ。

 特筆すべきは、その堅牢堅固な鱗。

 多くの者は、巨体であったり、その巨体に見合った膂力であったり。鋼板も切り裂く爪や牙。果ては、その大きな口より放たれる火焔や毒霧を危険視する。

 間違ってはいない。いないのだが、しかし正しくもない。

 確かに圧倒的な攻撃能力は恐ろしいものだが、それと同様に或いはそれ以上に恐ろしいのが如何なる攻撃でもほぼ傷つく事のない防御力を相手が有している場合だ。

 何せ、攻撃しても相手が止まらない。そもそもダメージを負わないのだから退ける事も難しい。

 今回現れたリンドヴルムという種は、他のドレイクに比べれば比較的小柄。それでも人一人握り潰し、一飲みに出来る程度の巨体を持つが。

 そして、恐怖は人を狂わせる。

「ファ、“ファイアボール”ッ!!」

 恐怖に飲まれた襟足の彼が左手を突き出し、放つのは人の頭ほどもある火球。

 対人攻撃能力という点では、及第点だろう。速度も申し分なく、着弾すると同時に派手な爆発を起こしていた。

 時に、窮鼠猫を嚙む、という言葉が秋津の国には存在する。

 追い詰められれば、ネズミも猫へと噛み付いて反撃する。転じて、弱者も追い込まれれば大きな反撃を行うという事。

 しかし、この言葉はが語られない。

 反撃したネズミは、そのまま猫に勝てるのか?否、その体格差などを加味すればまず不可能。

 寧ろ、手痛い反撃を行った結果相手の怒りを余分に買って無残な最期を迎える事になるだろう。

「Grrrrrr…………」

「な、何やってるんだよルーフ!?僕らの魔法が、リンドヴルムに通じる訳無いだろ!?」

 煙が晴れ、無傷のリンドヴルムが唸る中、茶髪の少年が襟足の彼の袖を引いて叫ぶ。

 現に、リンドヴルムの目が四人へと向けられている。心なしか、その口角が上がっており、舌なめずりを幻視してしまう。

 不意に、スピカは視界の先で緑色の何かが揺れたのを見た。

 ほとんど反射的にその場で伏せれば、次の瞬間に彼女の先程まで頭があった高さのラインを何かが勢いよく通り抜けていく。

 同時に、粉砕音と庇うように頭の方へと持ち上げた手の甲に掛かる細かなもの。

 恐る恐る顔を上げて、そして絶句する事になる。

「っ……!」

 彼女の背を預けていた木が、真っ二つにへし折られて葉の生い茂った上半分が千切れとんでいたのだから。

 それだけではない。先程まで前に居た三人がかなり離れた位置に転がっているのを確認できた。

 遠めだが、呻いている事から死んではいない。だが、腕や足があらぬ方向へと曲がっているのを見るに骨が折れているのだろう。

 振るわれたのは、リンドヴルムの下半身と見分けのつかない尾だ。

 太くしなやかで、全身を覆う鱗の強度も相まってその一撃は巨木だろうと一撃だ叩き割ってしまう。

 吹っ飛ばされた三人が生きているのは、偏にリンドヴルムの手心があったから。

 もっとも、ソレは到底良いモノではなかったが。

(……遊んでる)

 スピカは内心で唇を噛んだ。

 猫が獲物をばらす様に、シャチが獲物を弄ぶように。この蛇竜は一息に獲物を殺す気が無いらしい。

 最悪だった。結末は変わらないというのに、その道程があまりにも凄惨。

 ほとんど咄嗟に、スピカはリンドヴルムに対して両掌を向けた。

「“スターライト”ッ!!」

 放たれるは一条の光。それは真っすぐにリンドヴルムの頭部へと突き進み、その大きな頭を一気に飲み込む。

 照射時間は数秒か。徐々に光線は細くなり、無傷の頭部が再び現れる。

「ッ、やっぱりダメか……!」

「Grrrrrr…………」

 どうにか立ち上がったスピカは、頭を回す。

 ドレイク種の鱗は魔法に対する耐性も高い。正確には、あらゆる外的要因に対する耐性が極めて高く、結果的に魔法に対する耐性も高い。

 これらを加味して、スピカの採れる選択肢は逃亡しかない。

 戦った所で敵う筈もなく、かといって諦めた所でリンドヴルムが飽きるまで玩具にされてボロ雑巾の様に転がされるのが落ちだろうから。

 かといって馬鹿正直に尻尾巻いて逃げても、この体格差だ。木々を薙ぎ倒して直進できるリンドヴルムから、下生えにすら気を配らねばならない人間が逃げ切れる道理はない。

「GaaaaaaAAAAAAAAAAAA!!」

「ッ!」

 振るわれる剛腕。右腕で目の前を横薙ぎに引っ掻くように払われ、へし折れた木の残骸が根こそぎぶっ飛んでいく。

 間一髪で空へと身を投げて躱したスピカ。だが、空中での人間の機動力は本来皆無に等しい。精々が身を縮めて的を小さくする程度か。

「ッ、“ミーティア”!」

 しかし、スピカは違う。

 彼女は足の裏から先程と似た光線を発する事で空中で横に移動。再び振るわれたリンドヴルムの剛腕を躱してみせた。

 そう、魔導士にとってみれば空中戦はそれ程難しいものではない。練度の差はあれども、やろうと思えばできる。

 とはいえ、今のスピカのレベルは空中でどうにか動ける程度。空中戦と言うには程遠く、移動できる距離もそれほど長くない。

「くっ………あ――――」

 何度目かの剛腕を躱した所で、スピカへと尾が迫る。

 辛うじて身を捩り直撃こそ避けたものの、尾の先端が掠めその体は地面と平行に吹っ飛ばされてしまう。

「カッ!?…………ぅ……」

 木の幹へと強かに背中から叩きつけられ、そのままズルズルとへたり込む。

 リンドヴルムが、その両腕を使って這い寄ってくる。

 そして徐にその右腕を大きく持ち上げた。

 一息に叩き潰すのか、それともその鋭い爪で切り裂くのか。生殺与奪の権利は、端から握られているのだから、獲物に出来るのは抗う事だけなのだが。

「ま、だ……」

 スピカ・ヴィルゴーは諦めない。軋む右腕を持ち上げる。

 最早、一か八かに賭けるギャンブラーの心情だ。いや、今まさに生死の縁に立っているのだからスッカンピンになるか億万長者か、の境界線より更に先に居るのかもしれないが。

 魔力を高め、そして――――

「Gau!?」

 唐突に、リンドヴルムの動きが止まる。

 いた、それどころかその凶悪な顔に困惑のような色が浮かび、

「Giiiiii……!?」

 徐々に徐々に後ろへと向かって引っ張られているではないか。

 ずりずりと地面を掴む両手によって計八本の傷が刻まれていく。かなり力を入れているのかその両腕の筋肉が盛り上がっているのだが、止まらない。

 そして、スピカは遠目にその姿を見る。

「――――おい、俺の友人に何してる?」

 田舎出身の変わり者。自分の境遇を知って猶、知った事かと手を差し伸べた新しい友人。

 蹴速凛太郎が怒りの形相でそこに居た。

 驚くべきは、彼の行動か。

 なんと凛太郎は、右わきに抱えるようにしてリンドヴルムの尾を持ち上げると引っ張っているではないか。

 本来、一人間がこのような事をしても意味はない。寧ろ、尾を一振りされて潰れたトマトに成り果てるのが関の山だろう。

 しかし、彼は違う。蹴速凛太郎は、リンドヴルムに勝っていたのだ。

 数メートル程引き摺って、凛太郎はその両足により力を込めた。

「答えろや、蜥蜴野郎がァアアアアアア!!!」

 尻尾を担ぎ上げるようにして放たれる一本背負い。

 十五メートル越えの巨体が宙を舞う。森に一瞬影が差し、木々は大きく薙ぎ倒されていった。

 舞い上がる土埃。それはもう盛大に、宛ら噴火のよう。

 その光景を前にして、スピカは目を見開いていた。

 凛太郎が魔法に不慣れな事は聞いていた。それが嘘であったのか、という疑念が湧いた訳では無い。

 そもそも、身体能力を強化する魔法というモノは確かに存在するが、それはそれで上限があり少なくとも学生が使えるものなど高が知れている。

 要するに、本来のこの光景はあり得ないのだ。

 そのあり得ないの権化は軽い調子で駆け寄ってくる。

「よう、スピカ。逸れたみたいだからな。探しに来たぜ?」

「あ、え……?」

「…………ま、そう簡単にゃ逃がしてくれ無さそうだがな」

 状況が全く飲み込めないスピカだったが、事態は待ってはくれないらしい。

「GaaaaaaAAAAAAAAAAAA!!!」

 怒りを孕んだ咆哮が森に響く。

 基本的にあり得ない事とはいえ、ただ投げられた程度で沈黙するならばリンドヴルム含めたドレイクの脅威度はもっと低い。

 案の定、怒りに目を光らせて向かってくるリンドヴルム。

「ダメ……リ、リンタロー!逃げて!」

 迫る怪物を前にスピカは叫ぶ。

 先程は驚いたが、だからといってそのまま勝てる、等と言えるような相手ではないのだから。

 だが、

「断る」

 凛太郎は、前に出る。

 右足を僅かに下げて半身となり、右手は顔の隣の高さへ。左手は腰より少し低い高さで前へ置く。

 秋津の国にある仁王像。彼の構えは、これに似ていた。


 ソレは、この魔法全盛期の時代において、クソの役にも立たないであろう技術。


 名を、


「――――當麻流たいまりゅう、推して参る!…………ってな」

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