第6話

 スピカ・ヴィルゴーにとって、世間は冷たく厳しいものでしかない。

 彼女の出身国であるガラシア帝国は、軍事行動によってその国土を拡大してきた歴史を持つ。

 皇帝であるリオニス家。そして皇帝を守る十二の家。

 スピカの出身は、その家の一つであるヴィルゴー家。幼い頃から魔法に対する高い適性と、その適性を生かす才覚に恵まれた子供だった。

 だが、彼女は不幸に見舞われる。

 彼女は優しかった。争いごとを好まず、翼の折れた小鳥を世話して、それでも野生に帰れず息を引き取った時には大泣きするほどの。

 そして、彼女の世界はその優しさを許さない。

 戦争によってなり上がった歴史があるからか、自然と求められる気質は、冷酷さや好戦的な面。戦闘行為を嬉々として、或いは平然とこなせなければならない。

 スピカには抵抗があった。平気で他者を傷つけるという行為を行うには、あまりにも優しすぎたから。

 しかし、外にも彼女の居場所はない。

 ガラシア帝国のヴィルゴー家の出身。ただその事実があるだけで、周りからは悪感情を向けられるのだから。

 いっその事、壊れてしまえば楽だった。優しさを、甘さを、捨て去れるのならもっとマシだった。

 だが、出来ない。同時に、期待を抱いて裏切られ続けた。



 「――――はーい、それではー授業進行の説明はここまでとしまーす。午後からは設備紹介となりますからー遅れないようにしてくださいねー」

 それだけ言うと、ヴァントル教諭は教室を出ていった。

 これから昼休み。それぞれがそれぞれに動く中、スピカは一人そそくさと教室を後にしようと立ち上がる。

 教室には居られない。大なり小なり彼女へのヘイトが向いているから。

 ただ、ほんの少しだけ無意識の内にスピカは隣の席の彼へと僅かに視線を向けていたりもする。彼女自身、気づいてはいないが。

 声もかけずに席を離れた。

 扉を抜けて廊下へと出る。慣れたつもりの一人の時間だが、何故だか胸の内がギュッと握りしめられるような圧迫感を覚える。

 しかし、足は止められない。

(…………誰か、ついてきてる?)

 背後の気配。気付いてしまえば、気持ちも焦ってくる。

 だが、焦る気持ちに反してスピカはまだ学院内の構造を把握しきれてはいない。

 ただ、人が多く集まる食堂方面を避けるようにして動いてはいた。そのせいかよりハッキリと追いかけてくる足音が響いて迫ってくる。

 とりあえず、目の前の角を急いで曲がる。そう決めて足を進め、

「――――ちょ、待てって、スピカ!」

 その前に腕を掴まれる。

 体格相応に大きく、厚く、ごつごつとしていて、同時に硬くなった皮膚の感触がブレザーの袖越しにも分かる、そんな手だ。

 掴んだのは、まだまだ出会って間もない男の子。

「…………なに?」

「なにって……昨日は逃がしちまったからな。飯行こうぜ?」

「…………」

「先輩の話じゃ、生徒全員が集まっても席は完全に埋まらないらしいが……まあ、早い方が良いだろ?クロワッサン?ってのが旨くてな。あと――――」

「キミ一人で行ってきなよ」

「あん?」

 顔を伏せ、目を合わせないようにしながらスピカは冷たく突き放す。

 掴まれた腕は外せないが、だからこそ言葉で追い払わんとする。

「聞こえなかった?お昼が食べたいのなら、勝手に行きなよ。時間の無駄じゃないか」

「………」

「だいたい、態々追いかけてくるだなんて随分と暇なんだね?ボクが声を掛けたから?まさか、友達面してるんじゃないの?バッカだなぁ。そんなことある訳無いじゃないか。ほら、早く行きなよ」

「…………」

 散々な言い草を前に、しかし凛太郎はジッと動かなかった。その自身の左手が掴んだ右腕を放す事もしなかった。

 代わりに空いた右手で頭を掻いて、

「――――よし、行くぞ」

「っ!?」

 スピカの右腕を軽く引く。

 驚いたようにその細身の体が傾いて、つられるようにオリオンブルーの髪が揺れて、その下のアクアマリンの瞳がこの時初めて凛太郎の顔を映した。

「お前の事情は、何となく分かった。今日の朝も色々と聞けたからな」

「ッ……なら、分かるんじゃないかな?ボクと一緒に居る事がどれだけ良くない事なのか」

「かもな」

「だったら――――!」

「でも、俺がそれを理由にお前と一緒に居ちゃいけない理由にはなってねぇよ」

 黒目からの真っ直ぐな視線が、スピカを捉えて放さない。

「国の事も、お前の家の事も、さわり位しか調べてない。面と向かって事情を聴くべきだと思ったからな」

「…………自己紹介の時の、反応を見たでしょ」

「ああ」

「だったら、分かるよね?ボクの近くで居るだけで、君は悪意に晒される事になる。折角できた友達も失うどころか、学院の居場所がなくなるかもしれないんだよ」

「…………で?」

「~~~~~~ッ!!分かってよ!!ボクは、君と居ちゃいけないんだ!!誰かの側に居るだけでも傷つけるんだよ!?そんな人間と一緒に居たいって言うの!?そんな筈ないじゃないか!!誰だって傷つきたくないだろう!?」

 無人の廊下に細い悲鳴が木霊する。

 アクアマリンの瞳が潤んで大きな雫が零れ落ち、石畳の廊下を濡らした。

 十年以上だ。物心ついた頃には、周囲から小さくない悪感情を向けられ続けた人生。

 国が、歴史が、揃って少女の心に牙を突き立てる。

 跳ねのけられる程、強くない。抗えるほど、強くない。無視できるほど、強くない。

 柔らかく、脆い、優しい心。

 だから、彼女は笑った。笑顔の仮面を付けて、悪感情が響いていない

 ソレが処世術だった。それしか知らなかった。

 もう、期待したくないのだ。

 気にしない、と言った人が手のひらを返した。仲がいいと思った相手が、平気な顔で自分を売った。

 もう、傷つきたくないのだ。

「リンタロー、君は優しいよ。まだ会ってどれ程の時間も経ってはいないけど、それでも分かる。君の根っこは善良だ。だから……!」

 喉が引き攣る。言葉が詰まる。流れる涙は、止められない。

「だから…………ボクは、君に裏切られる事が、怖い…………」

 久しぶりに触れた温かさは、傷ついた少女の心には薬であると同時に、毒でもあった。

 期待するまい、と拒絶しようとする心と。もしかすると、と期待する心。

 相反する気持ちが、胸をズタズタにする。

 剥き出しの感情を向けられた凛太郎。

 その瞳は、静かに凪いでいた。

「…………お前の言いたいことは、分かった」

 小さく返された言葉に、スピカの肩が跳ねる。

 だが、彼女が恐れた温かさの喪失は何故だか訪れない。掴まれた右前腕は、そのままに制服の布地越しに生き物の熱を受け取り続けていた。

「その上で、言わせてもらう――――余計なお世話だ」

 強い言葉に、反射的に少女の顔が跳ね上がる。

 涙をこぼす瞳が困惑に揺らぎ、その一方でその瞳を向けられた少年はニヒルな笑みを浮かべていた。

「お前がこれまでどんな目に遭ってきたのか、なんて俺には分からない。俺は単なる田舎者で、そして世界の事もろくに知らない様な蒙昧野郎だからな。でも、」

 そこで一度言葉を切って、凛太郎は掴んでいたスピカの腕を引いて、そして自身の両手を彼女の細い両肩へと置いた。

 真っすぐに視線を合わせる。

「お前が、良い奴なのを俺は確かに知っている」

「ッ……それは…………」

「見間違いだろうって?いいや、違う。お前が良い奴じゃなけりゃ、俺が靴を脱ごうとしてる時に、心配そうに寄って来ない筈だ。馬鹿にするだけなら、近寄る必要はない、だろ?」

 黒い力強い瞳が真っすぐに向けられ、アクアマリンの瞳が揺れる。

「例えそれが嘘だったとしても、それでも俺はハッキリと言える。お前は確かに俺の友達で、そして俺は一度掴んだものを手放したくない質だ」

 凛太郎は、スピカの抱える問題の大きさなどたいして知らない。国や家の情報も、先輩であるフィスィとそれから朝から向かった図書館で得た簡単なものしか知らない。

 それでも、いや自分の目で見た情報に信を置く。

 彼にとって、スピカ・ヴィルゴーという少女は善良で、そしてはじめての友人。

 それだけあれば、十分だった。国も、家も、この評価を覆すには足りえない。

「お前は俺の友達だ、スピカ。そして俺はお前の友達なんだ。一緒に居て、飯食って、勉強して、そんな当たり前を過ごしたいって思う。それじゃ、ダメか?」

 真っすぐに向けられる言葉の、何と重い事だろうか。

 ハクリ、とスピカの口が動けどもその喉は詰まって言葉は出てこない。

 代わりに溢れるのは、涙。ポロリポロリと零れ落ちる雫は、どうしても止まってはくれなかった。

 悲しい訳では無い。どちらかといえば、嬉しいという感情の方が強いだろう。

 しかしぐちゃぐちゃになった胸の内がどうしたって整理しきれない。

 彼女の心の片隅が囁くのだ。


――――信じたって、結局裏切られる


 これは、スピカ・ヴィルゴーの人生の中で積み立てられてきた価値観の結果に他ならない。

 信じたい、と思う気持ち。この気持ちが強ければ強いほどに、その後に待っていた裏切られた、という失望は心に深く突き刺さる。

 それでも、

「…………っと」

 今だけは、この期待に埋もれていたかった。

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