05-05



「手、冷たいね」と彼女は言った。


 それからちょっとからかうみたいな調子で、「手が冷たい人は、心が……」と続ける。


「寒いせいだよ」


 俺のつまらない答えに、彼女は当たり前みたいに頷いた。


「うん。ここはちょっと、寒すぎるね」


「嘘なんだろ」


「なにが?」


「俺のことが好きだって」


「嘘じゃない」


 言い聞かせるみたいに、彼女は繰り返した。

 彼女は俺の手を握った。


「嘘じゃない」


 俺は手のひらを握り返した。





 寒い、と佐々木春香は何度も言った。

 ここは寒い。寒すぎる。凍えそうなくらい。何度も何度もつぶやいていた。


 一緒になって俺も繰り返した。風が冷たい。雪が降りだしそうだ。

 こんなところにいるべきじゃない。


 でも、ここを出る決心がなかなかつかなかった。

 いつかは帰らなきゃいけない。そう分かっていても。


 俺はポケットに入れっぱなしだった使い捨ての懐炉のことを思い出して、手で取り出して触ってみた。

 貸して、と佐々木春香は言った。俺は妙に意地の悪い気持ちになって、ポケットの中に懐炉を仕舞い込んだ。

 

 貸してよ、と彼女は戸惑った風に笑った。

 いいよ、と俺は言った。ポケットに手を突っ込んだまま。

 

 彼女は困ったような顔をした。俺たちは片手を繋いだまま向かい合っていた。

 距離が近すぎて正面を向けず、俯いていた。


 とりなよ、と俺は言った。

 佐々木は俺を見上げて、怪訝そうな顔をしてから、俺のポケットに手を突っ込んだ。


 それからしばらく俺のポケットの中を探っていたけれど、やがて俺の手の甲を覆うような形で動くのをやめた。


 ばかみたい、と彼女は言った。たしかにばかみたいだった。


 寒い、と彼女はまた繰り返した。それはそうだよ、と俺は答えた。まだ十二月なのだ。

 冬。


 春が遠い、と彼女は寂しそうに呟いた。俺は手のひらに力を入れて彼女の体を引き寄せた。

 彼女は抗わなかった。


 すぐだよ、と俺は答えた。すぐ近くだ。


 冬から春に、すぐになる。すぐに。俺はそう言った。彼女は頷いた。


“冬から春に”、と俺は言った。

“春から夏に”、と彼女は言った。

“夏から秋に”、と俺は言った。彼女はちょっと不服そうな顔をした。

 俺のたとえは分かりづらいかもしれないけれど、彼女の言葉遊びは少し気恥ずかしい。


 もう辺りは真っ暗になっていた。いいかげん引き伸ばせる時間でもなくなってしまった。


 帰るのは怖い、と彼女は言った。

 たしかに、と俺は頷いた。彼女はちょっと笑った。


 空から雪が降り始めた。寒さは一層攻撃的になって、空間はより居心地が悪くなった。


 もうここに居続けることはできないのだと俺は思った。ここは寒すぎる。


 帰らなきゃ、と彼女は言った。

 うん、と俺は頷いた。俺たちはみじろぎもせずに固まっていた。


 帰らないといけない。真っ暗闇の中を。それはちゃんと分かる。


 煙草くさい、と彼女は言った。

 ごめん、と俺は謝った。

 

 彼女はそれからおかしそうに笑って、俺のことを見上げた。雪が降っていた。


「じゃあ、一緒に帰ろっか」


 俺は頷いた。





「おまえは間違ってる」とクレハは言った。


「結局おまえは自分のことしか考えてない。自分を憐れんでるだけだ」


 そうかもしれない、と俺は言った。


「おまえにいったい何ができるんだ?」


 俺には何もできないかもしれない。

 誰にも何も与えられず、なにひとつ手に入れることができず、何も成し遂げることができないかもしれない。

 

「相手に縋りついてるだけだよ。結局いつかぜんぶ台無しにする。おまえ自身の手で」


 そうかもしれない。


「おまえが大嫌いな奴らの仲間になるんだ。おまえは」


 でも、と俺は言った。

 不幸ぶって、皮肉ばかり繰り返して、誰かに手を差し伸べてもらうのを待ってる。

 そんなままでいるよりは、大分マシだ。マシだと、思う。


「その場しのぎでしかない」


「それでもかまわない」と俺は言った。“彼女の手は暖かかった。”

 クレハは溜め息をついて、泣きだしそうな顔で俯いた。


「そう思える奴は、そう思えるだけの場所まで行けた奴は……」


 彼の声は震えていた。


「もう救われてるんだ」


 俺は何も言えなかった。


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