05-04



「ねえ」


 佐々木は、不意に口を開いた。空は真っ白で、風は凍っていた。

 澄んだ空気のなか、夕陽の光線が風景を照らしている。

 

「わたしには、きみがどんな人間なのかなんて、よくわからない」


 佐々木はフェンス越しに夕陽を眺めていた。

 夢の中で見た光景に似ている。


「誰だってそうだよね。本当に誰かのことを理解できる人間なんていない。そうでしょ?」


 佐々木の横に立っていると、俺は案山子にでもなったような気分になった。

 さっきまで泣いていたことも忘れて、俺は彼女の横顔に見とれていた。

 

 彼女は本当に綺麗なのだ。誰も気付かなかったとしても。


「それでもなんとなく、わたしには、今のきみが考えていることが、少し、分かるような気がする。たぶん今、きみはとても狭い物の見方をしてるんだと思う。混乱して、行き詰って、立ち尽くしてる。どこかに行かなきゃいけないんだと思ってるのに、足が竦んで動かない。分かれ道の前で頭を抱えてうずくまってる。どっちつかずのコウモリみたいに」


 俺は言葉を返さずに、ただ続きを待った。佐々木は俺がそうするだろうことを理解していたように話を続ける。

 

「わたしたちは、春からずいぶん長い時間、一緒に過ごしてきたけど、きみはいつもわたしに対して壁を作ってた。本心を話さないで、何かをごまかそうとしてた。わたしはバカだけど、そのくらいのことはちゃんと分かってたんだよ。でも、それでもかまわないって思った。何もかも晒しあう必要もないし、完全に理解し合わなくたっていいって」


 彼女の声はすごく落ち着いていた。空は段々と暗くなっていき、夕陽は山の向こうに隠れつつある。

 

「でも、違和感が日増しに強くなっていったんだ。それで、あの日、映画を一緒に観た日、なんとなく分かったの」


「……なにが?」


「きみは、わたしのことも憎んでたんだって」

 

 即座に否定しようとしたけれど、なぜか、声が上手く出せなかった。

 それに、俺が彼女を憎んでいたことは事実だった。一面的には。


「ねえ、自惚れかもしれないし、そうだったとしたら、笑ってくれてかまわないんだけど」


 彼女はそう前置きして、俺をまっすぐに見つめてきた。


「きみは、ここでわたしのことを待っていたんじゃない?」


 何をどう言えばいいのか、分からない。少なくとも俺は笑わなかった。


「わたしに、何か言いたいことがあったんじゃないの?」


 俺は何かを答えようとした。

 煙草の火をもみ消して、頭の中をさらって言葉をさがした。


「煙草、やめたほういいよ」


 俺の言葉を待たずに、佐々木春香はそう言った。


「そんなふうに吸うのは間違ってる。いろいろ言う人はいるかもしれないけど……。

 煙草を好きで楽しんでる人だっているんだから」


 俺は目を閉じて頷いた。


 これはきっと夢なんだな、と俺は思った。 

 彼女がこんなところにいるわけがないのだ。


 俺は今、佐々木春香と話しているのではない。


 佐々木春香という人物ではなく、佐々木春香のイメージと言葉を交わしているのだ。

 彼女は今、人物ではなく、ある種の概念を投影された印象に過ぎない。たぶん。


 だから。


「佐々木春香」


「……なんでフルネーム?」


「きみのことが好きだ」


 口に出すのがすごく簡単だった。

 

 佐々木春香は見るからに動揺していた。

 これくらい分かりやすく動揺する人もなかなかいないだろうというくらい分かりやすく。


 視線があちこちをさまよってこっちを見たりあっちを見たり。口を開いて何かを言いかけたかと思えばすぐに閉じてみたり。

 むっとしたようにこちらを睨んだあと、困ったように俯いたり。落ち着かないそぶりで髪をくるくるといじり始めたり。


「急に、なに?」


「分からない」


 本当に分からなかった。


「……嘘でしょ?」


「本当」、と、俺は本当のことだけを言った。


「嘘だ」


「どうして嘘だって思う?」


「わたしのことを好きになる人なんていないよ」

 

 俺はその言葉にすごく驚いた。


「どうして?」


「分からないけど、だって、今までもずっとそうだったんだよ。よく分からない理由で、いつのまにか嫌われてる。たぶんわたしはすごく無神経な人間なんだと思う。無思慮で、軽率で、だから知らないうちに、いろんな人を不愉快にさせてきたんだと思う。自分が嫌われる理由に気付けないくらい、無神経な人間だから……」


 たしかに彼女は、いつも誰かに嫌われていたような気がする。


 でも、その“誰か”は俺じゃない。


「俺はきみが好きだ」


「どうして?」


「どうしてだろう」


「いつから?」


「四半世紀くらい前」


「生まれてないよ」


「生まれる前から」


「……やっぱりからかってるんだよね?」


「ちがう。覚えてないくらい昔からって比喩」


「きみの例え話はいつも分かりづらいんだよ」


「悪いとは思ってるよ」


「本当に?」


「少し嘘」

 

「やっぱり嘘だ」


「好きなのは嘘じゃない」


「嘘ばっかり」


「俺が本当のことを言っても」と俺は言った。


「だいたいの人は信じてくれない」


 彼女は戸惑った顔をしていた。本当なのかどうか計りかねているのだろう。 

 

「たぶん言葉を扱うのが下手なんだと思う。喜ばせるつもりが悲しませたり、楽しませるつもりが怒らせたり……曲解されて、つまはじきにされて。いつもそうだ。だから……」


「……だから?」


 訊ね返されても、続きは言えなかった。だから……面倒だった。

 分かってもらおうとする努力。好きになってもらおうという努力。

 誰かを分かろうとする努力。誰かに上手に優しくする努力。すべてが面倒だった。


“どうせ上手くいかないから”。


「だから、拗ねてたの?」


「まあ、そう」


「かっこわるい」


「“かっこわるい”って言葉はちょっとかっこよすぎる」


「なにそれ?」


「情けないとか、みっともないとか……そういう言葉じゃないと」


「可哀想」と佐々木はもう一度言った。

 

「ねえ、本当なの?」


「なにが?」


「わたしのこと、好きって」


「ああ、そのこと」


「……やっぱりからかってるんでしょう?」


「いや。強がってるんだよ」


「バカみたい」と彼女は言った。いつか聞いたみたいな言い方で。

 そして、少しこわばった声で、吐き出すみたいに続けた。


「同情されてるんだと思ってた」


「誰が?」


「わたしが」


「誰に?」


「きみに」


「なぜ?」


「嫌われ者だから」


「きみはときどきおかしなことを言う」

 

「きみほどじゃない」


 今にして思えば、たしかに俺と彼女は似ているのかもしれなかった。


「だとしたらわたしは、見当違いのことばかり言ってたのかな」


「いつ?」


「いつも」


 溜め息。冷たい風。停滞。

 もう十二月なんだ、と俺は思った。 

 あるいは、これは救いなのかもしれない。


「わたしは……」


 佐々木春香は何かを言いかけた。そのことはちゃんと分かる。

 でも、言葉は途中で終わってしまった。電源を落とされたテレビみたいだ。プツンと音を立てて切れてしまう。

 言いかけた言葉はどこにも辿りつけずに宙をさまよっている。


 だから俺は、続きを促した。


「“わたしは”?」


 また、佐々木の顔がこわばった。そういうことは、俺にだってちゃんと分かる。


「逃げたかったんだよ、きっと」


 彼女はそう続けた。その言葉の意味は曖昧で、上手く伝わってこなかった。

 

「どこか。どこでもいいから。逃げたかったんだ。ここじゃないどこかに行きたかった。きみがそうなのかもしれないって思った。でも、きみと映画を観たときに、思ったんだ。きみはきっとわたしのことを求めていないし、必要としていないんだって」


「怖かっただけだよ」


 俺は正直に答えた。


「拒まれるのが怖かっただけだ」


 目を合わせる気にもならなかった。彼女の顔を見るのが怖かった。

 

「屋上に来なくなって、何日か経って、最初は上手くやれるって思ったよ」

 

 彼女は不意に、そんなことを言い始めた。そうだろうな、と俺は思った。実際に口に出してみた。


「そうだろうね」


「どういう意味?」


「その気になれば、きみほど上手くできる人もいないって意味」


「どうしてそう思う?」


「優しいから」


「買い被りだよ。優しい人は嫌われない」


「優しい人ほど嫌われやすい」


「どうして?」


「優しさっていうのは、優しくない人間にとっては圧力だから」


 彼女は言葉の意味を計りかねるような顔をした。


「子猫が道路にいる。車が走ってくる。このままじゃ轢かれてしまう。助ける?」


「……助けなきゃ、だよね?」


「そうだろうね。助けられるなら。でも、とっさにそう判断できる人間なんてそう多くない。そんな中、きみは車の前に飛び出す。子猫を見事助けてみせる。なかなかできることじゃない。称賛に値する」


 何が言いたいのか分からない、とでも言いたげな顔。


「そしてきみが猫を助けた横で、俺は道路に飛び出すこともできず、自分のことを考えていた。誰かの優しさっていうのは、優しくない人間の「優しくなさ」まで浮き彫りにさせるんだよ。だから、優しくなれない奴は、優しい奴が苦手なんだ。そういう奴には、きみみたいなのはちょっと眩しすぎる」


「……わたしは道路に飛び出さないよ」


「例え話だよ」


「きみの例え話は……」


「……うん」


「きみは、わたしに対して卑屈すぎる気がする」


「……」


「わたしのこと、対等の相手として見てよ。勝手に遠くに置かないでよ。そういう距離感だって、あるのかもしれないけど、近付きたいのに遠いのは、寂しいよ」


「染みついてるんだ。たぶん。そういう生き方が」


「だからって……だからって、そんな」


 また、言葉が途切れた。きっといくつもの断線があるんだろうな、と俺は勝手に思っていたのだけれど。

 追いかけるみたいにくしゃみの音が聞こえた。


「……ごめん」


 佐々木は謝った。なんだかこっちの方が申し訳ないような気持ちになった。


「……ここは少し寒いからね」


「とにかく、えっと……何の話をしていたんだっけ?」


 緊張の糸が切れて、話が混乱しはじめた。

 佐々木が真面目な顔をしているのがおかしくて、俺は笑ってしまった。


「猫の話」と俺は答えた。


「ちがう。そのまえ。……そう、屋上に来なくなった後のことだ。きみと中庭で話した後。上手くやれてるって思ってたって話。なんで話を逸らすの?」


「えっと、ごめん?」


「いいんだけどさ。それで、つまり……上手くやれるって思ったし、実際、けっこう上手くいってたんだよ」


「見てたよ。名前で呼ばれてた」


「それはべつに、特別なことじゃない」


「そうじゃない場合もある」


「……まあ、とにかく、上手くいってたと、思ってたんだけど、引っかかりが残ってて……場所を動かせば、相手が変われば、わたしも少しはマシになるって、そう思ったんだけど、違ったんだよ。ここじゃないどこかにいけば何かが変わるって、漠然と思ってたけど、違った」


 俺は黙って彼女の声を聞いていた。前から思っていたけれど、彼女の声を黙って聴いている時間は、すごく心地いい。


「どこにいったって逃げられないんだよ。何も変わらない。だってわたしが本当に逃げたかったのは自分自身からなんだ。自分じゃない誰かになんて、どうがんばったってなれない。逃げ場なんてどこにもなかったんだよ」


 もう空は暗くなっていた。


「きみのことが好きだ」と俺は言った。彼女の顔はもうほとんど見えなかった。


 彼女は何も言ってくれなかった。


「きみのことが好きだ、と、思う」


「……」


「……たぶん」


「……どうしてどんどん自信なさげになっていくの?」


「……分からないけど。たぶん、自信がないからじゃないか」


「そこは自信を持っててくれないと」


 彼女は照れ隠しみたいに笑った。


 どこにいったって逃げられない、と俺は頭の中で繰り返した。

 逃げ場なんてどこにもない。

 

「きみと過ごす時間は好きだよ」と佐々木春香は言ってくれた。


「楽しいし、どきどきする。きみの隣はすごく居心地がいい。それが少し怖かった」


 不思議なくらい、気持ちが楽になっていた。

 言葉にしてしまったからだろうか? バカみたいに泣いたからだろうか?

 全部消えてなくなってしまった。


 深く吸い込んでいた毒が、全部。あれは俺の一部だったはずなのに。

 今は何も感じられない。


「どこにも逃げられないなら、いま自分のいる場所を、少しずつ変えていくしかない。少しずつ、居心地のいい場所にしていくしかない。その居心地のいい空間を、少しずつ広げていくしかない」


 気が付けば,、彼女との距離が少しずつ縮められていた。

 いつのまにか、すぐ手の届く距離に、佐々木春香はいた。


 俺が近付いたんだろうか。彼女が近付いたんだろうか。


「桐谷夏野、くん」


「……なんでフルネーム?」


「わたしもきみのことが好きだよ」


「……ばかげてる」


「一緒にいてよ」


「……」


「もっとちゃんと、わたしのこと、見てよ」


 彼女は俺の手を取った。


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