05-03



「殴った直後は、間違ったことをしたという気持ちすらなかったよ。ただすっきりとした気持ちだった。女の子は少しバランスを崩して後ずさったけれど、倒れ込んだりはしなかった。俺はプリントの回収を当たり前みたいに続けようとした。他の女子のところに行こうとした。でも、その子の傍にいた、別の生徒が、「目から血が出てるよ」と、そう言ったんだ」


 思い出せる。記憶が正しいのかどうかは分からない。

 でも正しいはずだ。俺が殴った。みんな知っている。


「その言葉を聞いた途端、不安になって、俺は教室から逃げ出した。すぐに騒ぎになって、ほとんど悲鳴みたいな声がそこら中から聞こえはじめた。俺は人のいない場所に隠れなきゃいけないんだと思った。だから、図書室のカウンターの中に隠れて、俺は時間が過ぎるのを待った。このまま誰にも見つからないで、みんなが何事もなかったように振る舞ってくれるまで隠れていようと思った」


 もちろん、そんなのは不可能だった。俺はすぐに教師に見つかった。

 声もあげずに泣き続ける俺に対して、教師は訊ねた。


「落ち着いて答えてくれ。殴ったのか?」


 俺は頷いた。教師は動転した様子だった。俺を責めることもしなかった。


「どうして殴ったんだ?」と彼は訊ねた。


 わからない、と俺は答えた。 

 気付いたら殴っていたのだ、と。今でもどうしてあんなことをしたのか分からない。

 




 佐々木春香は何かを言いたげにしていたが、結局何も言ってこなかった。 

 助かった、と俺は思った。知ったようなことを言われていたら、俺はもう二度と彼女の顔を見たくなくなっていたところだ。

 

「殴るつもりはなかったの?」


「殴るという意思を持って殴ってる奴なんてめったにいないって、俺はそのとき悟ったよ」


 俺は軽蔑されるだろうことを承知でそう答えた。


「気付いたら殴ってるんだ」


 俺は母と一緒に女の子の家に謝りに行った。「ごめん」と俺は言った。「いいよ」と女の子は不思議と笑った。 

 申し訳ないことをしてしまった、と俺はたしかにそう思った。彼女が可哀想だと思った。

 

 でも、後悔や反省はまったくなかった。だってそれは俺の意思の埒外で起こったことなのだ。

 きっと言い訳にしか聞こえないだろうから……誰にも話したことはないけど。





「ちゃんと覚えてるんだね」


 佐々木は俺の話を聞いて、最後にそう言った。

 その言葉に、なぜかは分からないけど、俺はすごく苛立った。


「“覚えてるんだね”?」と俺は繰り返した。彼女の表情がこわばった。


「なんでそんな言葉が出てくるんだ? 俺が忘れてるかもしれないって思ってた?  俺はそんなに平然と生活してるように見えた? それとも被害者ぶってるようにでも見えた? なんでおまえに……当事者じゃない人間にまでそんなことを言われなくちゃいけない? ……俺は、べつに、おまえを殴ったわけじゃない」


 言葉は半分、勝手に出てきていた。いつもそうだ。ときどき体のコントロールが奪われる。 

 とても強い力。うまく制御できない衝動。


「反省、してないの?」


「“反省”?」


 彼女の放つ言葉のすべてが、今の俺には不愉快だった。


「してないよ、反省なんて。おまえらみたいな奴に言われたら尚更だ。どいつもこいつも俺を責めたよ。女を殴るなんて最低だって。反省しろって。そう言って今度は俺を殴るんだよ。みんなで寄ってたかって。結局正義っていうのは公認された暴力なんだ。べつに俺は自分が悪くないなんて言うつもりはない。悪いことをしたって思ってるよ、本当に。でも、“おまえら”には関係ない話だろ。反省してるとかしてないとか、なんでおまえらに判断されなくちゃいけないんだ?」


 佐々木は何も言わなかった。


「加害者でも被害者でもないはずの人間が、どうしていつだって被害者にばかり感情移入できるんだよ。自分が殴られる可能性ばかり考えて、なんで自分が殴る側になる可能性を忘れていられるんだよ。そんなんだから気付いたら……何も考えずに、いつのまにか自分が殴る側になってるんだ」


「……ねえ、桐谷くん」


 佐々木はそのとき、俺の名前を初めて呼んだ。


「ここにはわたしときみしかいない。他には誰もいない」

 

 彼女は静かな顔をしていた。軽蔑しているようには見えなかった。


「だから落ち着いて? わたしはきみのことを責めたりしていない」


 気付けば俺は泣いていた。女の子を殴ったときみたいに、その結果は突然現れた。

 感情が肉体を支配する。誰もがそれを必死に制御しようとしている。

 俺は操縦桿を手放すべきじゃなかった。どんなときだって。


「……父親のことが憎いんだ」


 俺はやっとの思いで言葉を吐きだした。


「どうして?」


 佐々木春香は何かを待つようにこちらを見上げた。


「俺と母親を放り投げたから。べつに俺なんてどうなろうとかまわないけど……なあ、笑うなよ。母さんは、良い人なんだよ。軽率なところもあるけど、考えが足りないときもあるけど、すごく良い人なんだ。俺みたいな奴のために、人生を無駄にしていい人じゃなかったんだ。あの人には、もっと他の幸せの形があったはずなんだ。責任が取れないなら、子供なんて作るべきじゃない。放り投げるくらいなら、最初から求めるべきじゃないんだ」


 佐々木はただじっと俺の言葉を聞いていた。言葉がとまらなくなっていく。


「でも分かったんだよ。理性じゃ抑え込めないときがあるんだって。あの子を殴ったときに分かった。"気付いたときには終わってるんだ”。そういうことがあるんだよ。責任逃れしたいわけじゃない。事実として存在するんだ。俺はもう父親のことを責められない。誰のことも責められないんだ。誰のせいにもできないんだよ」


 呼吸がどんどん苦しくなっていった。

 何を考えてるか分からなくて怖い、と、俺に向けてみんなが言った。

 いつ襲われるか分からない。目つきが怖い。今に殴り掛かってきそうだ。


 片親だから、とどこかの親が言った。


 本当は俺だって、自分が何を考えているのかなんて分からなかった。

 自分が何かをしてしまいそうで、不安で、怖かった。


 だから俺は、他人を求めないことにした。

 

 傷つけるから。


 責任をとれないのなら、最初から関わるべきじゃない。


「みんな分かってないんだよ」と俺は言った。


「そうかもしれない」と佐々木は曖昧に頷いた。


「自分たちはたまたま、“運よく”、人を殴らずに済んでるだけだって。寝不足の頭で車を運転したり、酒を浴びるほど飲んだり、信号を無視したり、電車に駆け込み乗車したりしても……運よく”誰も傷つけずに済んだだけなんだって。誰にだって起こりうることなんだって。分かってないんだ」


 でもきっとそれは、俺が言えることではないのだろう。





「……どうして、ここに来たの?」


 長い沈黙の後、俺は佐々木春香にそう訊ねた。

 彼女は笑うでもなく、怒るでもなく、ただ無表情に、俺の隣に立っていた。


「自分でも、よく分からない。気付いたら、ここにきてた」


 彼女の答えがそんな具合だったので、俺はそれ以上訊ねるのをやめた。


 会話が進みそうもなかったので、俺は自分の手のひらをじっと眺めることにした。


 いつものように、すごくいびつに見えた。

 どうしてだろう? どこがおかしいんだろう?

 

 あの子を思いきり殴った日から、俺の手のひらの形は変わってしまったような気がする。

 まともな人間は、俺を好きになったりしない。理解したりしない。


 人を殴って平然としているような奴のことなんて。

 だから佐々木春香も、すぐに俺のもとを去っていく。

 死ぬまで変わらない。


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