05-02


 その日からクレハは屋上に現れなくなった。

 彼のさわやかな笑い声を教室で聞くことが何度かあった。

 

 聞いているものを朗らかにさせる笑い声。彼の周りにはいつも誰かがいた。

 それでも彼の存在感は、俺の中でどんどんと希薄になっていく。


 カメレオンが色を変えて身を隠したみたいに見えた。






 佐々木もクレハも屋上に来なくなって、俺はひとりで退屈していた。


 あまりにも暇になってしまったものだから、俺は時間を持て余してどうでもいいことに使い始めた。


 気取ってガルシア・マルケスなんて読んでみたり、前日に観た「モンパルナスの灯」について考えたり。

 もしくは「ホテル・カリフォルニア」の歌詞をできるかぎり正確に思い出そうとしてみたり。


 俺は何十分もかけて慎重に思い出そうとした。

 その結果、確かだと思えたのは最後の部分だけだった。


「Last thing I remember, I was running for the door,

 I had to find the passage back to the place I was before,

 “Relax,” said the night man, “We are programmed to receive,

 You can check out anytime you like… but you can never leave”」





 屋上。どうして俺は屋上にいるんだろう。 

 風は冷たい。景色は寒々しい。雪だって降る。


 こんな場所でホテル・カリフォルニアのことなんて考えていたらそのうち気でも狂うかもしれない。

 

 何もかもが後ろ向きに進んでいるような気がする。

 日常の手ごたえというものがどんどんと遠ざかっていく。

 

 俺はどうしてこんな場所にいるんだろう。“誰のせい”で?


「おまえのせいだよ」と、頭の中でクレハが言った。でも彼は間違っている。“俺のせいじゃない。”


 じゃあ誰のせいなんだ?


 母親か、父親か、教師か、クラスメイトか、佐々木か、クレハか、白崎か、白崎の家族か。


 その答えを俺はちゃんと知っている。最初から知っていたのだ。

 誰でもない。“誰のせいでもない。”


 誰にも責任はない。ただ結果として俺はここにいる。ここに辿り着いてしまった。

 問題はそれ以外には存在しない。

 

「そういうのって、結局さ、本人が納得しちゃえば、なんでもない問題なのかもしれないよね」

 

 白崎が頭の中でそう言った。彼女は正しい。

 そして俺は納得なんてしていなかった。“俺はこんな場所に居たくなんてない。”


 こんな寂しい場所。打ち捨てられたような場所。

 置き去りにされたままやがては忘れられるような場所。



 俺はポケットから煙草を取り出して火をつけた。

 

 深く吸い込むと頭がぼんやりして舌がしびれた。変に吸いこんだせいで喉がいがいがした。

 煙草を吸うのは久しぶりのことだった。


 世界中から人の気配が消えていた。空間は隔絶されているのだ。

 誰もいない。誰もこんな場所を訪れたりしない。こんな場所では何も起こらない。


 俺はいま、告発されている。

 自分自身に告発されている。

 

 それはちゃんと理解できる。“俺は告発されている。”


 そして自分に採りうる手段がどれほどあるのか、そのこともちゃんと把握できていた。


 自分を殺して崖から飛ぶか。

 自分を殺さない為に屋上から飛ぶか。

 どこからも飛ばずに、死んだようにここに留まるか。

 

 簡単な手段はその三つの内のどれかだった。

 労力が少なく、シンプルで、混乱しない。


 けれどあとふたつ、採りうる手段が別にある。

 とても困難だけれど。


 つまり、世界に合わせて自分を作り変えるか。

 あるいは、自分に合わせて世界を作り変えるか。


 そのふたつだ。





 不意に強い風が吹いた。俺は最初、近付いてきた足音に気付かなかった。


「ねえ、寒くないの?」


 佐々木春香は当然のような顔で声を掛けてきた。俺は少し苛立った。


「何か用事?」


 思ったよりも尖った声を出すことができた。自分でも意外だ。

 彼女はちょっと戸惑った顔をしながらも、こちらに歩み寄ってきた。


「怒ってるの?」


「なぜ? 怒る理由がない」

 

 けれど俺は怒っていた。彼女は不思議なほど間違わない。


「煙草吸ってるとこ、初めて見た」


「そうだろうね」


「煙草を吸うなんて、不良だ」


「不良というより……」


 不良品だ。はっきりとそうは言わなかったけれど、彼女は俺の言いたかったことを理解したらしかった。

 そういうのがなんとなく、はっきりと、分かる。


「苦しくない?」


「何が?」


「煙草。そんなふうに吸ってさ」


「もう、そういうのを意識しなくなったな」


「わたしは吸わないから、分からないけど……どんなものにも、上手な付き合い方ってものがあると思うよ」


「そうかもしれない」と俺は頷いた。「でも俺にはよく分からないんだ」


「バカみたい」と彼女は俯いた。笑ってもくれなかった。


「どうして煙草なんて吸うの?」


「みんなが嫌うから」


 彼女は首を傾げた。俺は説明が嫌いだ。

 いつもうまく伝わらないから。


「みんな、煙草を吸う奴になんて近寄らない」


「じゃあ、どうして吸うの?」


「理由になるから」


「なにそれ」


「言い訳ができるだろ。みんなが俺に近寄らないのは、煙草を吸ってるからだって。煙草の匂いがするから……だから近寄らないんだって」


「……」


「手のひらの形がいびつなせいじゃない」


「可哀想」と彼女は軽蔑したように言った。俺は急に悲しくなった。


「ねえ、小学校の頃のこと、覚えてる?」


 佐々木春香はそう訊ねてきた。


「あんまり」


「記憶力、ないの?」


「忘れたいことばかりだからかもしれない」


「覚えてないのに、忘れたいって分かるの?」


「記憶の中身を忘れても、忘れたい記憶だってことだけは覚えてるもんだよ」


「バカみたい」と彼女はもう一度言った。


「ねえ、ちゃんと覚えてる?」と佐々木は訊ねてきた。


「なにを?」と俺は訊ね返した。


「きみが失明させかけた子のこと」


 彼女はなんでもないことのように言った。


「もちろん」と俺は答えた。





「どうして、あんなことをしたの?」


「あんなことっていうのは、つまり、あの子を殴ったこと?」


 彼女は頷いた。俺は真剣に考えた。


「分からない。よく思い出せないんだ」


「女の子が目から血を流して、学校に救急車が来て、彼女は何針か縫う手術をした。校舎中が騒ぎになって、きみは図書室のカウンターの中で隠れて泣いてた。彼女は結局転校した」


 佐々木は咎めるような調子で続けた。そう感じただけかもしれない。


「そのときのことを、思い出せないの?」


 きっと彼女は、俺が何を言ったって納得してくれないだろう。

 だって俺はあのときのことを、後悔も反省もしていないんだから。

 誰も分かってくれないだろうけど。


「小学二年生の頃だったよな、たしか」


「うん。彼女は三年にあがるときに転校したから」


「自分がどんな子供だったか、よく思い出せないんだ」


「誰だってそうだよ」と佐々木は言った。その言葉はきっと間違っている。


「それぞれが自由なテーマを決めて、調べものをして、大きな方眼紙にまとめる作業をしてた。"総合的な学習の時間”とか言う奴。机を教室の後ろにさげて、床に方眼紙を広げて、マジックで文章をまとめてた。休み時間で、他の男子はみんなすぐに校庭に遊びに行った。教室に残ってたのは日直の俺と、何人かの女子だけだった。女子は休み時間まで利用してレポートを完成させようとしてたんだろうな。俺は日直で、配られたプリントを回収してたんだ」


 よく覚えている。その日、どんな状況だったのか。

 自分が何を考えていたのか、まったく思い出せないのに。


「その子はたしか、コスモスについて調べてたんだ。どんな内容だったか、詳しいところまでは思い出せないけど。たしか開花の時期がどうとか、花言葉がどうとかいう奴。水色の方眼紙だったよ。彼女は床の上に座って、文章をまとめてた。俺は歩き回っていた。それで、誤って彼女の筆箱を蹴飛ばしてしまったんだ」


 佐々木は何も言わずに俺の話の続きを待っていた。彼女はきっと俺を責める。


「女の子は腹を立てて、怒鳴りながら俺の肩を掴んだ」


 それだけだった。


「それだけなのに、気付いたら俺は、その子を殴ってたんだよ」

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