04-06
「それにしても、夏野くんか」
白崎の母親は夕飯のあと、溜め息をつくようにそう呟いた。
「はい?」
言葉の意味がわからなくて聞き返すと、彼女は小さく笑った。
「いや。深い意味はないよ。そんな苗字の子いたっけかなって思って」
「……」
「わたし、名前覚えるの得意だからさ。名簿とかみたらだいたい覚えちゃうんだけど」
俺は白崎の方に視線をやった。彼女の表情は少しこわばっていた。
俺はあまり取り合わないことにした。
「そうなんですか?」
「うん。ほんとはね」
◇
本名を名乗っておけばよかったと思った。
夏野海という名前のクラスメイトがいるかどうかなんて、調べられたらすぐにばれる。
本名を名乗ったとしても、こちらは善意のクラスメイトということで話は済んだはずだ。
でも、嘘をついたら、嘘をつく理由があったのだと悟られてしまう。
名前を隠す理由があると。俺が“知っている”のだと気付かれてしまう。
知ったうえでこの家に来たのだと。それはちょっと面倒な話だ。
けれど、本名を名乗ったとしても、それはそれで面倒なことになったかもしれない
あるいはそもそも――最初から面倒な話でしかなかったのかもしれないけど。
◇
「そろそろ送るよ」と白崎の母親は立ち上がった。
はい、と俺は頷いた。すみません、と謝った。
「気にしないで。世話になったのはこっちなんだから」
どうしてだろう? 彼女の声にはどこかしら冷めたものが含まれているような気がする。
何かの棘、警戒心。
母親は白崎を立ち上がらせた。白崎は上着を羽織って母親の後をついていった。
助手席に白崎が座り、後部座席に俺が座った。
息が詰まるような感じがした。
ガレージから車を出すとき、ちょうど正面から車のライトが入ってきた。
「父さんだ」と白崎は言った。
俺はその言葉が何を意味しているのか、一瞬把握できなかった。
その人は車を庭の邪魔にならない位置に止めた。
そして車から降りると、こちらの車に歩み寄ってきた。
運転席の窓がこつこつと叩かれる。窓が降りる。
要件のみの短い会話が告げられる。
これこれこういう理由で娘のクラスメイトを送ってくる。末娘は家にいる。そういう会話だ。
俺は努めてその会話を、特に男の方の声を聞かないようにした。
俺はその会話を聞きながらいくらか絶望していた。
その人が、たとえば乱暴であったり、おどおどしていたりしたら、俺はちょっとはマシな気分になれた。
でもその人は『まとも』だった。すごくまともな男の姿をしていた。後部座席の俺に笑いかけて頭を下げた。
「どうも」と彼は言った。俺はかろうじて頷きを返し、少ししてから「どうも」と小さな声で言った。
呪われている。
帰り道、俺は他人の家の車に乗りながら母親のことを考えた。
今まさに働いているはずの母のこと。
それから助手席に座る白崎を斜め後ろからぼんやり見た。
白崎は視線に気付くとくすぐったそうに笑った。
「なに?」
「いや」
彼女の態度はすごくまともで、くつろいでいた。でもそう見えるだけかもしれない。
少なくともブローティガンなんて好んで読むようには見えない。
白崎の母親は車の中でいくつか俺に質問をした。俺は何か答えたはずだが、よく思い出せない。
◇
車の中で、俺はブローティガンの小説について考えていた。
「ほんとうに、わたしはどのくらい辛い思いをしたかわからないわ」と女は言う。
「なんだかぼくにもわかる気がする」と男は言う。
「それはすてき」と女は言う。
こんな一節もあった。
「わたしは、それがだれであるにしろ、堕胎の聖者の肖像があってしかるべきではないかと思った。」
もっともな話だと俺は思ったものだった。
あれは堕胎についての小説だった。
けれどどうなのだろう? 本当のところ、堕胎についての小説ではなかったのかもしれない。
本当のことなど俺に分かるはずがない。少なくとも原題は「Abortion」だったと思ったが、記憶違いかもしれない。
◇
車から降りたとき、白崎は俺の名前を呼んだ。
「それじゃ、またね。ナツノ」
俺は頷いて、白崎の母親に頭をさげた。
「今日は本当にありがとうございました」と俺は言った。
でもそれは嘘だった。俺は感謝なんてまったく抱いていなかった。
俺の心にはようやく解放されたという安堵しかなかった。
だいたいの場合そうだ。俺の心は緊張と安心以外の動きをほとんど持っていない。
車は間をおかず元来た道へと去って行った。俺はしばらくその場に立ち尽くして、自分の名前について考えた。
白崎の母親はどうするだろう。父親に確認するかもしれない。
名簿を見て、俺の本当の名前をたしかめるかもしれない。
でもどうでもよかった。きっと二度と彼らとは顔を合わせないだろうから。
あるいは合わせるかもしれないけれど、俺が負い目を覚える必要もないだろうから。
いずれにせよ、白崎の母親がたしかめようとすればすぐに分かることだ。
俺の名前が――夏野海なんてバカげた名ではなく――桐谷夏野だということは。
なにせ彼女の夫がつけたものなのかもしれないのだから。
◇
当然だが家には誰もいなかったし、エアコンどころかストーブも灯りもついていなかった。
ふと思い出して携帯を開くと不在着信が母から何件か入っていた。
テーブルの上に書置きもあった。連絡がなかったことに文句をつけていたのだ。
俺はそのまま母の携帯に電話を掛けた。留守電に繋がった。
今帰った、心配を掛けてすまなかった、と俺はメッセージを残した。
クラスメイトの家に寄っていたのだ、と。
白崎の家は――少なくとも表面上はそう見えたという意味で――暖かかった。
そして俺の家には誰もいない。
からっぽ。
佐々木春香のことを考えた。彼女の笑顔を思い出した。
どうして俺はこんなところにいるんだろう。
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