04-05
足音。階段だろうか。とんとんと落ちてくる音。
それが聞こえた。白崎は怪訝そうな顔をして、ダイニングテーブルの少女に声を掛けた。
「誰かいるの?」
「お母さん」と少女は答えた。
「車あったっけ?」
白崎はちょっと慌てた感じでひとりごとのように言った。あったよ、と俺は頭の中だけで答えた。
そうこうしているうちに扉が開かれた。寝間着姿の女性はぼさぼさの髪のまま寝惚け眼をこすった。
「お客さん?」
「そんな恰好で出てこないでよ」
白崎が常識的なことを言っている。
「ごめんね、みっともなくて。誰か来てるなんて思わなかったから」
母親のその言葉が、白崎に向けられているのか、俺に向けられているのか分からなくて、少し戸惑う。
俺は慌てて頭をさげた。
「彼氏?」
「そんなところ」と白崎が臆面もなく言うので、俺は詐欺にあったような気持ちになった。
「クラスメイトです」と俺は訂正した。白崎はつまらなそうな顔でこちらを見た。
どうして俺はからかわれてばかりなんだろう。
「買い物の帰りに、荷物を運ぶの手伝ってもらったの」
「そうだったの。わざわざありがとう。お名前は?」
俺は答えに窮した。
本名を答えてもいいのか、答えるべきではないのか、とっさに判断がつかない。
俺は白崎に視線で助けを求めたけれど、彼女は不思議そうな顔で首を傾げるだけだった。窮地。
「あ」
けれど数秒後、白崎はあからさまに何かに気付いたような顔で手を打った。
それから考え込むように眉を寄せた。
「えっと、ナツノ」
おいおい、と俺は思った。白崎はちらりとこちらを見て、少し気まずそうな顔をした。
「夏野くん?」
「そう。ナツノ・ウミ。夏野海」
あからさまな偽名。俺はいくらか安堵して、いくらか呆れた。安直にもほどがある。
「あれ。じゃあ夏海と同じじゃない? 下の娘も夏の海って書いて夏海で……」
しかもいくらか悪趣味だった。
母親は何かに気付いたようにダイニングテーブルに目を向けた。
「なっちゃん、挨拶した?」
少女は驚いて、慌てたように振り返った。
彼女は頷かなかった。
「挨拶しなさい」
促されて、少女は身体をこちらに向けた。それから頭を下げて、「こんにちは」、と言った。
「それにしても海、くん? かわいい名前ね」
「ええ」
俺はどう反応すればいいのか分からなった。
結局もうどうでもいいやと思って、適当に言葉を続けることにした。
「よく言われます。名前のせいでけっこう損をしてきましたよ」
「あら。そうなの?」
「夏野海って、イントネーションによってはこう、力士の四股名みたいに聞こえるじゃないですか。だから小学生のときから「お相撲さん」って呼ばれてからかわれたんですよ。そういうことを言う奴は片っ端から平手で倒してきましたけどね。だから最後には横綱って呼ばれてました」
母親はどう反応していいのか分からないような顔でこちらを見て、結局取り繕うように笑った。
笑ってくれなくてもよかった。どうせ全部嘘なのだ。
白崎はひとりで笑いをこらえていた。あとで文句のひとつでも言っておきたい。
「母さん、どうして家にいるの?」
話が途切れたタイミングで、白崎は母親にそう訊ねた。
「今日は休みだって言ってなかったっけ?」
「訊いてないよ」
「そう。じゃあ今言った」
なかなかおおらかな人柄らしい。
「あ、そうだ。買い物……」
母親は何かに気付いたように手を打った。
「夕方行こうと思ってたのに、寝ちゃってた」
「……ちょうどよかったよ」
呆れたように溜め息をつく白崎が印象的だった。
「夏野くん、ご飯食べていきな」
「いえ、もう……」
「親御さんが待ってるかな?」
「いや」
一度否定してから、しまった、と俺は思った。
「じゃ、食べていきなよ」
気安そうに、彼女はそう言った。俺は白崎の方を見た。
彼女は何も言わずにアップルティーを飲んでいた。俺の視線に気付くと不思議そうな顔をした。
「好きにしたら?」とでも言いたげに。
「ご迷惑に……」と言いかけて、俺はまたしくじったなと思った。子供が使うには少し生意気すぎた。
「いいよ。どうせ作るのうちの娘だから」
「休みの日くらい母さんが作って」
「やだよ。まずいんだもん」
ずいぶん豪快な人だ。白崎の母親とは思えない。
「食べていきなよ。そのあと車で送るよ。歩いてきたんでしょ?」
「……はい、まあ」
「もう暗いし、雪も降ってるみたいだし、寒いし、危ないよ」
俺はしばらく迷ったけれど、たしかに白崎の家から自分の家に歩いて帰るのは億劫だった。
かといって、そこであてにしてしまうわけにはいかない。
「食べてきなよ、ナツノ」
そう言って、白崎はいたずらっぽく笑った。
いまさらのように、俺はこのクラスメイトの性格の悪さに気付いた。
◇
「この子、学校でどんな感じ?」
白崎の母親は俺にそう訊ねてきた。
「どんな……?」
「うん」
俺は少し考え込んだ。白崎は母親を視線だけで咎めた。
白崎は制服の上にエプロンをつけて、肩まで伸びた髪を後ろでひとつに結んでいた。
彼女は普段からは想像できないくらいてきぱきと動いていた。
おかげで話相手を失った俺は、しかたなく彼女の母親の世間話に付き合っていた。
「変わってますね」
俺がごく自然な感想として呟くと、白崎は心外だと言いたげに声をあげた。
「ちょっと」
「なに?」
彼女は何かを言いたげにしていたが、結局不満そうな顔で言葉をおさめた。
母親はくすくす笑っていた。
「変わってるって、どんなふうに?」
「どんなふうに、って……」
うまく説明できる気がしなかったし、説明できたとしても、親に伝えていいものか分からなかった。
「わたしには言いにくいか」
と、結局母親は勝手に納得してしまった。
会話を横から聞いていたらしい白崎が、当たり前みたいに俺のことを呼んだ。
「ねえ、ナツノ」
俺は一瞬とまどったけれど、白崎がこの場で俺をそう呼ぶのは仕方ないことだった。
それでも、俺は彼女の慣れきったような言い方に、違和感を覚えた。
「なんかそれじゃ、わたしの学校での素行が親に言えないくらい悪いみたいだよ」
彼女はどうでもよさそうだった。
「あれ、違うの?」
母親はからかうみたいに言った。彼女たちは俺を挟んで、俺を必要としない会話をしていた。
俺の様子を、白崎の妹はちらちらとうかがっていた。
闖入者に対する警戒心なのか、あるいは見知らぬ人間に対する好奇心なのか。
よく分からなかった。
「それで、ふたりは付き合ってるの?」
母親はからかいを含んだ声音で言った。少し無神経な質問だ。
「いえ」と俺は否定した。
「ほんとに?」
彼女は退屈しているのだろうか?
「本当に」
「ふうん。あ、夏野くん、部活は何やってるの?」
「何も」
「……あ、時期的に引退してるか」
「いえ。もともと帰宅部です」
「ふうん。高校はどこ受けるの?」
俺は答えるかどうか迷った。
「まあ、そこらへんです」
「なんだそれ」
彼女は笑った。あまり話したことのない人の笑い声というのは、いつも俺を緊張させる。
「彼女とかいるの?」
「いえ」
俺が否定すると、白崎は何か言いたげな顔でこちらを見た。
「なに?」と訊ねると、彼女は顔を逸らして「別に」と言う。
その様子を見て、今度は母親の方が何かを言いたげにした。
それでも誰もなにも言わなかった。
そうこうしているうちに料理はできあがったらしかった。
食卓。いくつもの食器。何人分かの料理。エアコンの音。
違和感。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます