04-04


 俺はちょっと急ぎ足で駆け寄って、「大丈夫?」と声を掛けてみた。

 傍には誰もいなかった。「大丈夫?」と声を掛けた人はどこにいったんだろう。でもそんなものかもしれない。


 白崎の傍には自転車が倒れていて、自転車のかごから中身の詰まった買い物袋がはみ出ている。

 野菜や魚や惣菜。果物。お菓子。


 生活感のある中身だった。俺は白崎とその買い物袋のイメージを繋げるのに苦労した。


「大丈夫です」と白崎はよそゆきの声で言った。普段俺と話すときよりいくらかしっかりした声音。

 彼女もこんな声を出せるんだ、と俺は感心した。そう思うと白崎に少しだけ親近感が湧いた。


「あ」


 白崎は転んでいた体を起こしたとき、俺が俺だということに気付いた。

 そして気まずそうな、恥ずかしそうな顔で目を逸らした。


 手を差し伸べた。彼女は俺の手をとらなかった。たぶん俺の手のひらのいびつさが気持ち悪かったんだと思う。

 そのままの姿勢でいるわけにもいかず、俺は意味を失った手のひらをふらふらと動かしてみた。何にもならなかった。


「買い物?」と俺は訊ねてみた。


 白崎はどことなく拗ねたような調子で「そう」と肯定した。感情の動きがいつもより分かりやすい。

 買い物の生活感に引っ張られているのかもしれない。 


 白崎は買い物袋からこぼれ落ちた中身を拾って詰め直し、自転車の籠に袋を戻した。

 結構な重さらしく、バランスをとるのに苦労しているようだった。


「大丈夫?」と俺はもう一度訊ねた。

「大丈夫」と白崎は一度、さっきと同じようなよそゆきの声、よそゆきの顔で笑った。

 でも、すぐ何かに気付いたみたいな顔になって、「じゃない」と付け加えた。


「大丈夫じゃなくても、やらなきゃいけないから」


 彼女はどうでもよさそうに言う。訊かなければよかった、と俺は思った。

「大丈夫?」なんて。軽率で安易で無責任な言葉だ。


「いつもここで買い物してるの?」


「わりと」と白崎は頷いた。


「家、近いの?」


「ここからだと、二十分くらい」


「徒歩で?」


「自転車で」


 俺はしばらく迷った。迷っているうちに、白崎は段々と気まずそうな顔になっていった。

 

「……じゃあ、帰るから」と、短い沈黙の後、白崎は言った。


「待った」と俺はそれを制した。

気まずさから合わないように逸らしていたのだろう視線を、彼女はもう一度俺に向けた。


「運ぶの手伝うよ」


「え、いいよ」


「雪降ってるよ」


「雪降ってるからこそ、いいよ」


「でも、その調子じゃまともに漕げないだろ。自転車」


「歩けば……」


「歩いて、転んだんだろ、さっき」


 彼女は黙り込んでしまった。


「雪、積もってるし、もう暗くなってきてる」


「だからこそ、そっちだって早く帰りたいでしょ」


「俺は……」


 言いかけた言葉を、俺はかろうじて飲み込んだ。


「……いや。ごめん。お節介だった」


「大丈夫?」と訊いてしまったからには、協力しなければならない、と考えていた。

「俺は無責任な人間じゃない」と、誰かに、自分に、言い訳しようとしてるみたいに。

 そんな「俺の都合」に、白崎を巻き込もうとしていた。


 俺の言葉に、白崎は戸惑うような素振りも見せなかった。 

 ただ不思議そうな、透明な表情で、こちらを見上げていた。彼女は俺よりも少し背が低かった。


 不思議な感じがした。普段図書室のカウンターで座っていると、視線の高さはほとんど変わらない。

 彼女が自分を見上げているというのは、少し奇妙な感覚だった。


 白崎は長い沈黙の後、どこか気恥ずかしそうな声で、「ごめん」と言った。

 それから、


「やっぱり、お願いしてもいい?」


 困ったみたいな笑い方で、そう言った。


 俺は少しだけほっとした。





 けれど俺にはやはり考えが足りなかった。

 彼女の家は、俺にとって単なるクラスメイトの家とは言えない。

 そのことが頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。





 両親は共働きなのだと白崎は言った。

 だから家事は自分でしているんだ、と。


 白崎の家はごく普通の一軒家だった。芝生の庭に玩具の小さなブランコが置かれている洋風の二階建て。

 

 白崎の家に着く頃には、外はもう真っ暗になっていた。

 雪はそう間を置かずに止んだが、街路にわずかに積もっていた。夜のうちにまた降り始めるだろう。

 

 俺が荷物を持ち、白崎は自転車を引きずって歩いた。

 

 指先がひどくかじかんでいた。白崎は自転車をガレージの中にしまって、俺を玄関に通してくれた。

 ガレージには一台の白い軽自動車が止まっていた。


「ごめんね」と白崎は何度か言ったが、俺には彼女が何を謝っているのかよく分からなかった。


 玄関に荷物を置いたとき、ようやく重さから解放された指の関節がひどく痛むことに気が付いた。


 そしてすぐ傍の扉から、こちらを窺っている目に気付いた。


「ただいま」と白崎は言った。優しげな声だった。

「おかえり」と少女は言った。こちらはびくびくした様子だった。


「じゃあ」と俺は言って即座に踵を返そうとしたが、白崎が引き留めた。


「休んでいったら?」


「もう暗くなるし、帰らないと」


「少しだよ」と白崎は言った。


「お茶くらい出すよ」


 ちょっと中学生らしからぬ気遣いだな、と俺は思った。

 あるいはそれは気遣いではなく嫌がらせの類なのかもしれない。


 以前白崎から聞かされた話について考え、やはりすぐに帰るべきだという気もした。

 けれどあの話自体、白崎から聞かされていなければ俺が知っているはずもないことなのだ。

 そう考えれば、俺に気にする義務はないように思えた。


 少女は警戒するようにこちらを見ていたが、数秒目を合わせるとすぐにドアの向こうに引っ込んでしまった。


「じゃあ、少しだけ」と俺は言った。べつにたいしたことじゃない。

 それに、今は家に帰りたくなかった。





 白崎の妹はダイニングのテーブルでノートと教科書を広げていた。たぶん宿題か何かだろう。

 俺が部屋に入るのを見て戸惑ったように白崎を見上げたが、何も言わなかった。


「妹」と白崎は俺に向けて言った。俺は「どうも」と挨拶した。わざとらしいやりとりだ。

 少女は一瞬だけ俺に目を向けたがすぐに逸らして、頭をぺこりと下げた。


 彼女の脇には赤いランドセルが置かれていた。懐かしい感じのする赤色だ。最近はここらへんじゃ見かけない。


 白崎は俺を指し、妹に向けて「ともだち」と言った。それ以上の説明はしなかった。少女は戸惑っていた。


「適当に座って」と白崎は言った。

 部屋の中はリビングとダイニング、それからキッチンがカウンターを挟んで同居していた。

 俺は入口から一番近くに置かれていた長いソファに腰を下ろした。


「なにがいい?」


「え?」


「緑茶とほうじ茶と梅こぶ茶」


「……」


「コーヒー、ココア、レモンティー、アップルティーもある。全部インスタントだけど」


「……じゃあ、レモンティー」


「了解。夏海は?」


「え……?」


「何か飲む?」


 少女はびくびくした様子で答えた。


「……ココア」


 学校で見る白崎と、目の前にいる白崎との間には、印象の違いがあった。

 掴みどころがなく曖昧な印象のある学校での白崎は、この場ではなりをひそめていた。

 ここにいるのは「姉」としての白崎だった。俺は認識の齟齬に眩暈を覚えた。


 白崎は小さく頷きだけを返して、その三分後には三つのカップを持ってきた。


 空気はしんと張りつめていた。エアコンが動いていて、室内は少しむっとするほど暖かい。


「ありがとね」


 と白崎はどうでもよさそうに言った。そのどうでもよさそうな態度に、俺は少しだけ安心した。


「助かったよ」


「ああ、うん」

  

 相槌を打ちながら、俺は彼女の言葉を半分も聞いていなかった。

 気分が落ち着かず、視線をどこにおけばいいのか分からなかった。


 佐々木春香の家に行ったときだって、ここまで動揺はしなかった。


 白崎は俺の正面に腰を下ろした。

 部屋の中にはリビングテーブルとダイニングテーブルがあり、俺と白崎はリビングの方に座っていた。

 

 エアコンの風。


 俺は白崎に言いたいことと訊きたいことがあった。

 でも、白崎の妹のいる前でそれを口にするわけにはいかなかった。


 白崎はいつものつかみどころのない表情でぼんやりとアップルティーに口をつけた。


「ごめんね」と彼女はもう一度謝った。


「なにが?」


「混乱させたでしょ」


「……どの話?」


「人違いの話」


 俺はどう答えるべきなのか迷った。彼女が話をどのように終わらせたいのかも分からなかった。


「まあ、面食らったけどね」


 俺は軽く答えながら、彼女が何を考えているのかを理解しようと努めた。


「ねえ、結局あの話は……」


 彼女は首を横に振って、俺の言葉を遮った。


「知らない。わたしは親が話してるのを偶然聞いただけだから。わたしの学年に「その子」がいるって」


「いつ?」


「一年の秋頃」


「どう思う?」


「きみの名前を言ってたよ」


 と彼女は言った。


「だから本当だと思う」


「人違いかもしれない」


 彼女は頷いた。俺はレモンティーに口をつけた。


「後悔してる?」


 白崎はぼんやりと訊ねてきた。


「なにを?」


「この家に来たこと」


「まさか」


 と俺は少しだけ嘘をついた。

 俺はちらりと白崎の妹の様子をうかがった。

 耳に入っているとしても、何のことを言っているのか、分からなかっただろう。


「前から思ってたんだけど」


 俺が口を開くと、彼女は不思議そうな顔でこちらを見た。


「きみには悪趣味なところがあると思う」


 彼女は黙ったままもう一度頷いた。


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