04-03
「悪い夢でも見てるみたい」と白崎は言った。
「なにが?」と俺は訊ねた。
◇
「なにが、って……」
白崎はちょっと戸惑ったふうにこちらを見た。
俺はその視線をぶつけられて、ようやく自分の居る場所を思い出した。
今日は水曜で、放課後で、俺は図書室にいる。
「話、聞いてた?」
俺は答えられなかった。今の今まで、彼女とここにいるのだという事実すら忘れていた。
「さっきまで、相槌だけじゃなくて、ちゃんと会話になってたのに」
怒ったというよりは、心配したみたいに、白崎は俺のことを見た。
彼女がそんな顔をするのは、少し意外だった。
けれど、と俺は思った。いったい俺がどれくらい彼女のことを知っていると言うんだろう。
意外も何もあったものじゃない。
「ごめん。どんな話をしてたんだっけ?」
彼女は本当に困った顔をした。俺だって同じことをされたら似たような顔をするだろう。
俺と彼女が話をしているときに彼女の方が「まとも」な態度をとるのは、珍しいことだった。
「どんな、って、ほんとに覚えてない?」
「うん」
「今の時間は分かる?」
分からなかった。俺は図書室の入口の上の掛け時計を見た。時刻は四時半を回っている。
「窓の外を見てみたら?」
言葉に従い、俺は窓の外に目をやった。
「……降ってるね、雪」
「そうだよ。ちゃんと見える?」
「積もるかな?」
「たぶんね」
「これが?」
「なにが?」
「悪い夢みたいって、さっき言ってたの」
彼女は少し考え込んでしまった。そしてどうでもよさそうな顔をして、俺の方から視線を逸らした。
「……何度も話したいことじゃないから」
「……ごめん」
俺は謝った。なぜか、謝らないといけないような気がした。
不思議と彼女も謝った。
「こっちこそ」
図書室の空気は冷たかった。徐々に温度を奪われていくような錯覚。あるいは現実。
凍りついていく。
◇
時間が流れている気がしなかった。
汚れたレンズ越しにただ風景を眺めている。
自分がその場に立っているという実感がないまま、ただ時計の針だけが動いていく。
時間が来て、俺たちは図書室を後にする。
「またね」と白崎は言う。俺は頷く。たぶん頷いたと思う。
確信は持てない。ひょっとしたら頷かなかったかもしれない。
風景が雪に塗りつぶされていく。
白崎は俺を残して帰ってしまった。俺はしばらくその場に立っていた。
そしてふと意識を取り戻した。図書室の前で。時間の感覚がない。自分がどれくらいその場に立っていたのかも思い出せない。
気付けば外は暗くなっていた。
◇
校舎のなかは静まり返っていて、音はやけに大きく響いていた。
音というのは隙間に入り込む性質を持っている。
他の何かで満たされた空間では、音は聞き取りにくい。
音というのは、空ろな場所でよく響く。空洞。
俺は自分の頭を軽く叩いてみた。思ったより音はしなかった。
奇妙な話だ。俺の頭はいまからっぽなのに。
あるいは叩いたような気がしただけで、俺は自分の頭を叩いたりしていなかったのかもしれない。
そう考えてみれば、その説には信憑性がある。誰が意味もなく自分の頭を叩いたりするだろう。
それに、もし叩いたら、気持ちのいい音がよく響いたはずなのだ。俺の頭はからっぽなんだから。
俺はきっと自分の頭を叩いたりしなかったのだ。そんな気がしただけで。
◇
足は気まぐれに動いていた。
俺はいつものように帰路を歩いているはずだったのに、なぜか普段なら立ち寄らないはずの商店街にやってきていた。
そこで俺は誰かの姿を探していた。たぶん。誰か。
それが誰なのか、俺は知っていたけれど、「誰か」という以上には考えないようにした。
そうしないといろんなものが駄目になっていく。たぶん。
足元を猫が歩いていく。「無理に飛ぶこともない」、と猫は言っていた。
「そうだな」と俺は相槌を打った。猫が正しい。
近くを歩いていた五歳くらいの子供が俺を見上げて変な顔をした。俺は頭を振って溜め息をついた。
近くで同じ中学の、たぶん後輩だろう、女子生徒ふたりが話をしていた。
どうやら帰る途中で偶然出会ったらしい。久し振りに話をするようで、随分はしゃいでいた。
おかしな話だ。同じ中学なのに、久しぶりに話すような相手だなんて。そんな相手と話をして喜ぶなんて。
「これから帰るところ?」と片方が言った。
「うん」ともう片方が頷いた。
「じゃあ、一緒に帰ろっか」
当たり前の風景。きっとそこらじゅうで行われているありふれた会話。
無理に飛ぶこともない、と俺は頭の中で繰り返した。
雪はかすかに積もり始めていた。
人々の声もどこかしら、戸惑ったような、困ったような、わずかな嬉しさを含んだような調子。
いつもとは少し違う。
べつに寂しいわけじゃない、と俺は頭の中で嘯いた。
コウモリみたい、と誰かが頭の中で不機嫌そうに呟いた。
俺は、自分が何を求めているのか、はっきりと理解している。
後ろの方で、誰かが転んだような気がする。たぶん転んだんだと思う。
そういう音がした。雪で滑ったのかもしれない。滑るような雪だとも思えないけど。
あるいは踏み固められたところだったのか。
誰かが心配そうに「大丈夫?」と訊ねる声が聞こえた。答えは聞こえなかった。距離のせいかもしれない。
俺はなんとなく気になって、転んだ人について考えてみた。数秒考えてから、振り返ればいいのだ、と気付いた。
転んでいたのは白崎だった。
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