04-03


「悪い夢でも見てるみたい」と白崎は言った。


「なにが?」と俺は訊ねた。




「なにが、って……」


 白崎はちょっと戸惑ったふうにこちらを見た。

 俺はその視線をぶつけられて、ようやく自分の居る場所を思い出した。


 今日は水曜で、放課後で、俺は図書室にいる。


「話、聞いてた?」


 俺は答えられなかった。今の今まで、彼女とここにいるのだという事実すら忘れていた。


「さっきまで、相槌だけじゃなくて、ちゃんと会話になってたのに」


 怒ったというよりは、心配したみたいに、白崎は俺のことを見た。

 彼女がそんな顔をするのは、少し意外だった。


 けれど、と俺は思った。いったい俺がどれくらい彼女のことを知っていると言うんだろう。

 意外も何もあったものじゃない。


「ごめん。どんな話をしてたんだっけ?」


 彼女は本当に困った顔をした。俺だって同じことをされたら似たような顔をするだろう。

 俺と彼女が話をしているときに彼女の方が「まとも」な態度をとるのは、珍しいことだった。


「どんな、って、ほんとに覚えてない?」


「うん」


「今の時間は分かる?」


 分からなかった。俺は図書室の入口の上の掛け時計を見た。時刻は四時半を回っている。


「窓の外を見てみたら?」


 言葉に従い、俺は窓の外に目をやった。


「……降ってるね、雪」


「そうだよ。ちゃんと見える?」


「積もるかな?」


「たぶんね」


「これが?」


「なにが?」


「悪い夢みたいって、さっき言ってたの」


 彼女は少し考え込んでしまった。そしてどうでもよさそうな顔をして、俺の方から視線を逸らした。


「……何度も話したいことじゃないから」


「……ごめん」


 俺は謝った。なぜか、謝らないといけないような気がした。

 不思議と彼女も謝った。


「こっちこそ」


 図書室の空気は冷たかった。徐々に温度を奪われていくような錯覚。あるいは現実。

 凍りついていく。





 時間が流れている気がしなかった。

 汚れたレンズ越しにただ風景を眺めている。

 自分がその場に立っているという実感がないまま、ただ時計の針だけが動いていく。


 時間が来て、俺たちは図書室を後にする。


「またね」と白崎は言う。俺は頷く。たぶん頷いたと思う。

 確信は持てない。ひょっとしたら頷かなかったかもしれない。


 風景が雪に塗りつぶされていく。


 白崎は俺を残して帰ってしまった。俺はしばらくその場に立っていた。

 そしてふと意識を取り戻した。図書室の前で。時間の感覚がない。自分がどれくらいその場に立っていたのかも思い出せない。


 気付けば外は暗くなっていた。





 校舎のなかは静まり返っていて、音はやけに大きく響いていた。


 音というのは隙間に入り込む性質を持っている。

 他の何かで満たされた空間では、音は聞き取りにくい。

 音というのは、空ろな場所でよく響く。空洞。


 俺は自分の頭を軽く叩いてみた。思ったより音はしなかった。

 奇妙な話だ。俺の頭はいまからっぽなのに。


 あるいは叩いたような気がしただけで、俺は自分の頭を叩いたりしていなかったのかもしれない。

 そう考えてみれば、その説には信憑性がある。誰が意味もなく自分の頭を叩いたりするだろう。

 それに、もし叩いたら、気持ちのいい音がよく響いたはずなのだ。俺の頭はからっぽなんだから。


 俺はきっと自分の頭を叩いたりしなかったのだ。そんな気がしただけで。





 足は気まぐれに動いていた。

 俺はいつものように帰路を歩いているはずだったのに、なぜか普段なら立ち寄らないはずの商店街にやってきていた。 


 そこで俺は誰かの姿を探していた。たぶん。誰か。

 それが誰なのか、俺は知っていたけれど、「誰か」という以上には考えないようにした。

 そうしないといろんなものが駄目になっていく。たぶん。


 足元を猫が歩いていく。「無理に飛ぶこともない」、と猫は言っていた。

「そうだな」と俺は相槌を打った。猫が正しい。

 近くを歩いていた五歳くらいの子供が俺を見上げて変な顔をした。俺は頭を振って溜め息をついた。


 近くで同じ中学の、たぶん後輩だろう、女子生徒ふたりが話をしていた。

 どうやら帰る途中で偶然出会ったらしい。久し振りに話をするようで、随分はしゃいでいた。

 おかしな話だ。同じ中学なのに、久しぶりに話すような相手だなんて。そんな相手と話をして喜ぶなんて。


「これから帰るところ?」と片方が言った。

「うん」ともう片方が頷いた。

「じゃあ、一緒に帰ろっか」


 当たり前の風景。きっとそこらじゅうで行われているありふれた会話。

 

 無理に飛ぶこともない、と俺は頭の中で繰り返した。


 雪はかすかに積もり始めていた。


 人々の声もどこかしら、戸惑ったような、困ったような、わずかな嬉しさを含んだような調子。

 いつもとは少し違う。


 べつに寂しいわけじゃない、と俺は頭の中で嘯いた。

 コウモリみたい、と誰かが頭の中で不機嫌そうに呟いた。


 俺は、自分が何を求めているのか、はっきりと理解している。

 

 後ろの方で、誰かが転んだような気がする。たぶん転んだんだと思う。 

 そういう音がした。雪で滑ったのかもしれない。滑るような雪だとも思えないけど。

 あるいは踏み固められたところだったのか。


 誰かが心配そうに「大丈夫?」と訊ねる声が聞こえた。答えは聞こえなかった。距離のせいかもしれない。

 

 俺はなんとなく気になって、転んだ人について考えてみた。数秒考えてから、振り返ればいいのだ、と気付いた。


 転んでいたのは白崎だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る