04-02
屋上にはクレハが居た。いつものように煙草を吸っていた。
「遅かったな」
と彼は言った。なぜか分からないけれど、そのときの彼の表情はすごく軽やかで爽やかに見えた。
煙草をくわえているのに。
「まあ、ちょっと」
「ふうん」
クレハは詳しい話を聞こうとはしてこなかった。彼は本心では、俺のことなんてどうでもいいのだろう。
俺だって本心では、彼のことなんてどうでもよくなりつつあったんだけど。
「べつに約束をしているわけでもないだろ」
ちょっとした沈黙の後に、俺はそう言ってみた。彼は俺が何を言っているのか分からないみたいだった。
「なにが?」
「ここに来るのがさ」
クレハは少し考え込むような素振りで、煙草を指に挟んだまま何も言わなくなってしまった。
笑いもせず。溜め息もつかず。
やがて静かに、
「他に行き場なんてないだろ」
そうこぼした。
けれどそれは嘘だ。彼はとても器用だし、行こうと思えばどこにだって行ける人なのだ。
佐々木春香だってそうだ。
彼らはきっと上手く立ち振る舞える。鋭い牙を持ったライオンだから。
行き場がないのは俺だけだ。
◇
「クレハは、どうして俺に話しかけたの?」
俺がそう訊ねたとき、彼は怪訝げな笑みを浮かべた。そんな仕草すらさわやかだった。
「何の話?」
「初めて話をしたときだよ。バスケ部のキャプテンと……」
「元キャプテン」
「元キャプテンと、おまえが何かを話していたとき」
「……」
「クレハは俺に話しかけた。どうして?」
「べつに。すごく苛立ってたんだ。たまたまおまえが居て、おまえが“分かりそうだ”と思ったから、話した」
「……クレハは、何にそんなに苛立っていたの?」
「俺の母親はね」と、クレハは躊躇もなく話し始めた。
「二十一のときに妊娠して、結婚して俺を産んだ。そして二十三のときに離婚した。 もともと生活力のない人だったんだろう。今となっては顔も思い出せないけど」
「そうなんだ」と俺は言った。反応に困るような話だった。
「そして、二十五のときに新しい恋人を作った。俺の世話を祖父母に任せて、そいつと遊び歩くようになった。まだ若かったし、ちょうど周囲の知り合いだって結婚しはじめる時期だっただろうしな。気持ちは分からなくもない」
彼は他人事みたいに話を続けた。
「そして、また妊娠した。恋人を連れてきて、結婚したいと言い始めた。当時のことなんて俺は覚えてないけど……俺は相当嫌がったらしいよ。でも母親は、俺の新しい父親だっていって、俺とそいつを引き合わせたんだ。子供のいる女を平気で妊娠させるような男だよ。軽率で考えなしで、安易で救いようもないバカな男だ」
俺は黙って彼の話を聞いていた。
「祖父母も、男の側の両親も反対したらしい。でも二人は結婚して子供を産んだ。男は平然と俺を引き取ろうとしたらしい。なあ、信じられるか? そいつは何て言ったと思う?『彼女の子なら俺の子だ』って言って、俺を引き取ろうとしたんだ。ほとんど会ったこともない子供だぜ」
彼は深呼吸をして、興奮して荒くなった息を整えた。
「どうしてそんなことが言えるんだろうな? なんでそんな奴が俺の父親になったりするんだ? 俺は嫌がったよ。いや、覚えてないけど、嫌がったらしい。いま同じ状況になったって嫌がる。結局俺は祖父母に引き取られたんだ。母親は祖父母が俺を洗脳して奪ったんだって言ったらしいけどな。母親とその男は、どこかで子供と一緒に暮らしてるだろう。ひょっとしたら別れてるかもしれないけど。でも、なあ、どうしてそんなことが平然とできるんだろうな? どうしてそんなことが起こるんだ?」
俺はまだ黙っていた。言えることなんてあるはずがなかった。
「憎んでるんじゃないし、恨んでるわけでもない。でも、どうしてこうなるんだ?」
凍てつくように冷たい空気の中、耳鳴りがしそうな沈黙の中に、クレハの声が静かに溶けた。
不意に、鼻先を冷気がかすめた。
空を見上げる。空白のような白い粒。雪が降っているのだ。
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