04-01


 佐々木春香は何かを言いあぐねたような顔で俺の前に立っていた。

 

 駄々をこねる子供みたいに。


 マフラーで隠れた口元。カーディガンの袖。

 俺たちは葉を脱ぎ捨てた欅の下で何も言い合えずに立ち尽くしていた。


 風は優しかったけど、尖っていた。見えない針があるみたいに。


 俺は瞼を閉じて、少し考え込んでしまった。


「そうだな」、と俺は思った。こんな結果になるのだと、俺は分かっていたのだ。

 彼女の言う通り、俺は最初からこうなることを知っていた。


 そのうえで、この結果を変えようとしなかった。

 文句のつけようがない。


 不意に、中庭に声が響いた。


「はるか」と、その声は言っていた。

 それは名前だった。俺の目の前に立っている女の子。その子の名前。

 

 それはどことなく新鮮な響きを持っていた。

 だって俺は、彼女のことを一度も名前で呼んだことがない。

 苗字ですら、直接口にしたことはない。


 佐々木春香は声の方に首をめぐらせた。そして笑って手を振る。


 俺が佐々木春香の視線を追うと、見覚えのある女子生徒がこちらに駆け寄ってきていた。


 そして俺の存在に気が付くと、「ごめん、取り込み中?」なんてわざとらしく訊ねてくる。


「ううん。話してただけ」


 佐々木春香は嘘っぽく笑った。


「ふうん……」


「これから帰るところ?」


 何かを訊きたそうにしている女子生徒を牽制するみたいに、佐々木春香は間髪おかずにそう言った。


「うん」と女子生徒は頷いた。


「じゃあ、一緒に帰ろっか」


「あ、うん。でも、いいの?」


「いいって、なにが?」


「……なんでもない」


 彼女にもこんなふうに話せる相手がいるのだ、と俺は思った。

 時間が問題を解決したのかもしれない。あるいは、周囲にながされない人間がいるということかもしれない。


 そして彼女は、そういう相手を見つけたのだ。





「それじゃあね」と佐々木春香は俺に笑いかけた。綺麗で遠い笑い方。

 

 俺はただ、第三者がいる前だということだけを意識して、やっとの思いで頷きを返した。

 きっと動揺は顔に出ていた。恐喝でもされていたと思われたかもしれない。


 けれど彼女たちは中庭を去っていき、俺はひとり欅の下に立ち尽くしていた。


 俺はしばらく身動きもとれなかった。考えることもできなかった。

 身動きをとりたいわけじゃなかったし、考えごとをしたいわけでもなかった。


 風が少し強くなってきた。俺は制服のポケットに手を突っ込んだ。

 そうしてみてから、なんとなく気になって、自分の手のひらをじっと観察してみた。

 




 昔からずっと、自分の手のひらは、いびつな形をしているような気がしていた。


 どこがおかしいのかは、よくわからない。形なのか、大きさなのか、バランスなのか……。

 指の長さや太さかもしれないし、爪の大きさかもしれないし、関節の間隔かもしれない。


 なんなのかは分からない。とにかく、どこかしら、いびつなのだ。


 俺はしばらく自分の手のひらをじっと見つめていた。

 普段はそんなに気にならないけれど、眺めているうちにいよいよ奇妙だという気がしてくるのだ。

 人間の手には見えない。


 どことなく小児的で、奇形的な……そんな手のひら。


 でも、仕方がない。それが俺なのだ。この手のひらの形は俺の一部なのだ。

 俺はそれを受け入れて生きていくしかない。手首から先をすげ替えてしまうわけにはいかない。

 

 この手のひらを受け入れて生きていくしかない。

 それができないならいよいよ死ぬしかない。


 そういうものなのだ、と俺は自分を納得させた。





 俺は自分の手のひらを眺めながら、ひょっとして佐々木が戻ってくるんじゃないかと期待していた。

 

 そして何か優しい言葉でも掛けてくれるんじゃないかと。受け入れてくれるんじゃないかと。

 けれどもちろん佐々木は中庭に戻ってこなかった。


 あるいはクレハでもかまわなかった。クレハがここにやってきて、何をやってるんだ、とでも声を掛けてくれればいい。

 そうすれば俺だって、いつもみたいな仮面を取り戻して冷静に状況を観察できるようになるかもしれない。


 なんなら白崎でもいい。抽象的で地に足のついていない彼女の話を、ずっと聞かされたって今はかまわない。

 俺を動揺させるような言葉を吐いたってかまわない。何かしら言ってくれれば。


 本当は誰だってかまわなかった。


 傍にきて俺のことを慰めてくれるなら誰だってかまわない。

 見ず知らずの誰かだっていい。ただ俺の肩を叩いて、何かを言ってくれれば。


 別に寂しいわけじゃない。人と話すのは苦手だし、ひとりでいるのは嫌いじゃない。

 でも、今は誰かと話がしたい。そんな気分だった。


 寂しいんじゃない。ただとても悲しい。





 いつまで待っても、中庭には誰も現れなかった。

 俺はいい加減ばかばかしくなってきた。


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