03-06



 十二月のある月曜、俺は覚悟を決めて佐々木と話をすることに決めた。

 それが正しいのか間違っているのかは分からない。


 すくなくとも、それが俺が採りうる唯一の手段だということは明らかだった。


 佐々木春香に声を掛けたのは放課後のことだった。

 彼女は戸惑う素振りも見せなかった。どことなく遠い表情をこちらに向けただけだった。


「少し話がしたいんだけど」


「いいよ」


 荷物を手に席を立ったところだった彼女はすぐに頷いてくれた。


 教室にはまだ何人かのクラスメイトが残っていた。

 彼らは興味ありげに俺たちの方を見ていた。佐々木春香というのはそういう人間なのだ。


「場所を変えたい」


「ここじゃダメなの?」と彼女は言った。


「ここでいいと思う?」と屋上でなら訊きかえせたけれど、教室ではそういうわけにはいかなかった。


「あまり人に訊かれたくない」


 彼女は少し考え込んでから、仕方なさそうに溜め息をついて頷いた。


 そうした態度は、屋上でいつも俺と話をしていた佐々木春香とはまったく違う。


 まるでぜんぶが嘘だったみたいに。

 実に一月近く、俺と佐々木春香は言葉を交わしていない。


「わかった」


 彼女はそう言うと、俺の方を見上げた。身長は俺の方が少し高い。

 去年までは逆だった。


「屋上以外の場所で話そう」


 佐々木春香はそう言った。俺は少し傷ついたような気がした。でも錯覚だろう。傷つく理由なんてないんだから。





 屋上にはきっとクレハが居た。でも、彼女が屋上を避けたのはクレハがいるからではないと思う。

 たぶん単純に、俺と一緒に屋上に行くのが嫌だったんだろう。

 

 かなり分かりやすい意思表示だ。

 そういう意味では彼女は俺をまったく意識していないというわけではないのだろう。

 

「それで、何の話?」


 たどり着いたのは中庭で、彼女は大きな欅の木の脇にぽつんと置かれたベンチに腰かけた。

 俺は隣に座る気にはなれず、向かい合う気にもなれず、傍に立ったままでいた。

 もちろん彼女は俺に「座ったら?」なんて勧めたりはしなかった。いつものようには。


 俺はこの期に及んで何を言っていいのか分からなかったけれど、開き直って思ったことを言ってみることにした。


「どうして屋上に来なくなったの?」


「寒くなったから」と彼女は言った。


「それだけ」と。まるであらかじめ用意していたみたいにすらすらとした答えだった。

 あるいは本当に用意していたのかもしれない。


「本当にそれだけ?」


 彼女は怪訝そうな顔をした。


「どうしてそんなことを訊くの?」


 その表情も、声も、どこかしら嘘っぽかった。

 でも、本当に嘘をついているのか、そう見えるだけなのか、俺には区別がつかなかった。


 俺は自分の足をこの場に縫い付けるのに必死だった。 

 気を抜くと生来の性質である臆病さが俺を突き動かしてしまいそうで、俺は努力して口を動かした。


「それだけじゃなさそうだと思ったから」


 彼女はちょっとおかしそうに笑った。親密な感じのする笑い方ではなく、遠く離れたものを眺めるように。

 彼女の態度は俺を不安にさせた。「何を誤解しているの?」というふうな笑い方。

「たかだか数ヵ月話をしたというだけで」というふうな。今の俺には現実と妄想の区別がつかない。


 俺が黙っていると、佐々木は「もう終わり?」と首を傾げた。


 何かを言うべきだ、と俺は思った。

 

 何かを言って、佐々木を引き留めるべきだ。それは分かる。

 彼女は立ち上がった。俺の方を見て、窺うように笑った。


「じゃあ……」


「待ってくれ」


 引き留めたけれど、何か考えがあったわけではない。思いつくことなんて何もなかった。

 どうできるというのだろう。


「なに?」


 問いかけ。俺は答えられなかった。言えることなんて何もなかった。


「なにかあるなら、早くして」


 彼女はそう言って促した。息が詰まるような沈黙。


「ここは寒すぎるよ」


 彼女の言う通りだった。中庭はとても寒かった。

 風はほとんどなかった。ただ空気が凍てつくように冷たい。服越しに突き刺さるように。


 十二月。もう冬なのだ。


 俺は何を言えばいいのか分からなかった。何かを言わなければならないことは分かっているのに。 

 何も思いつかない。悲しいくらいに。あと少しで涙まで出そうなくらいに。


 そんな俺の態度を憐れんだのか、あるいは単に、終わらない話に苛立ったのか、佐々木は口を開いた。

 さっきまで存在していた見えない壁は、そこにはなかった。

 

 彼女は以前のように親密な態度で俺に声を掛けた。

 

「あのね、もうおしまいなんだよ」


 だからこそ、救いがない。


「きみはきっと分かってたんじゃない? いつかこんなふうに終わるときがくるって。それがちょっと予定より早かっただけ。そうでしょ? だってきみは、わたしとずっと一緒にいたいだなんて、最初から考えてなかったんでしょ?」


 俺は何も言い返せなかった。彼女の声は真剣そうに聞こえた。嘘くさいほどに。


「どうしてそんなことを言う?」


 俺はほとんど反射的にそう言い返していた。


「きみは結局わたしのことを、自分になついた野良猫みたいに思っていただけなんでしょう? 寂しいときに擦り寄ってくれば可愛がったりするし、餌だってあげるけど……。結局、自分で飼ったりする気はないんだよね。自分に都合のいいところだけ、受け取りたかったんでしょ?」


 俺はもう何も言えなかった。

 何かを言わなくては、と思っていた。けれど何も言えなかった。

 

 彼女は正しい。息が詰まるほどに正しい。


「違う」


 それでも俺は否定した。彼女が言っていることは正しいけれど、言い方が少し間違っていた。


「違わない」

 

 けれど、反論の機会は与えられなかった。俺は俺の認識を彼女に伝えることができない。


「きみが何を考えているのか、わたしにはずっと分からなかった」


 彼女はそう言って、カーディガンのポケットに手を突っ込んだ。

 俺は唇を動かそうとした。動け、と念じてみた。実際に唇は動いた。


「俺だってそうだよ」と俺は言った。


「俺にだってきみが何を考えているのかは分からない。誰だってそうだろ。人の考えていることが分かる奴なんていない」


「そういうのとは別だよ」


 佐々木の態度はとても攻撃的だった。俺がそうさせているのだ。たぶん。


「わたしはね、わたしは――」


 彼女は何かを言おうとした。俺をまっすぐに見据えて。口元はマフラーで隠れていた。

 けれど、彼女は結局その続きを言わなかった。静かに目を伏せて、諦めるように首を振っただけだった。


 なぜかは分からないけれど、俺はそのとき安堵していた。





 佐々木春香のことが好きだ。

 

 佐々木春香と話す時間に幸せを感じる。中毒的なほど。


 佐々木春香と一緒に生きられたら幸せだろう。

 

 けれどそれは少し重すぎる。 

 佐々木春香という人間には――あるいは他のどんな人間にも――俺という人間は重すぎる。


 自分が相手に求めるほどのものを、俺は相手に与えることができない。


 だから、俺は他人を好きになるべきではない。


 佐々木春香に相応しい人間はもっと他に存在する。ちょうどいい相手が。肩の力の抜けた関係が。

 俺は佐々木春香を楽しませることができない。幸せにすることができない。満たすことができない。


 俺はとても渇いているから、相手を吸い込みすぎてしまう。肺がおかしくなって死んでしまうまで。

 そして自分が満たされることに必死すぎて、相手を満たすために力を割くことができない。

 

 誰かと一緒に生きるべきではない。誰かに心を開くべきではない。

 そういう人間がいる。少なくとも俺はそう考えている。今のところは。あるいはこれから先もずっと。





 俺と佐々木春香は来年の春、中学を卒業し、それぞれ別の高校に進学することになるだろう。

 俺の日常から佐々木春香の姿が消え、俺は煙草を失う。


 そして俺は屋上のフェンスを乗り越える。

 もしくは、二度と佐々木春香に会えないまま生きていく。


 それが俺の認識だった。

 

 俺は来年の春に自分が死ぬだろうと思っていた。

 あるいは、来年の春から自分は死んだように生きることになるだろうと。


 俺はそのことを諦めて、ちゃんと受け入れていた。


 たとえ他の誰かを好きになったところで同じだ。

 結局俺は、その誰かに対して自分を預けることができない。


 他の生き方というものが、まったく思い当らないのだ。

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