03-05



「正しいっていうのは、一種の暴力だよね」


 夏のある日の放課後、佐々木春香は屋上で、俺に対してそう言った。

 もう半年近く前のことなのだ。


「どういう意味?」


「つまり、正しさっていうのは、誰の目から見ても正しいから、正しさっていうわけでしょう?」


「まあ、そうだね」


 俺には彼女の言葉がトートロジーのように聞こえたが、それでも頷いた。


 その日はよく晴れた日で、佐々木春香はいつものように俺に片側のイヤホンを貸してくれた。


「だから、正しさで攻撃されたら、人は抵抗することができない。なぜって、相手が正しいということが、攻撃されている本人にも分かるから。だから正しさを振りかざされたら、人は無抵抗にそれを受けるしかない」


「まあ、そうかもね」


「本当にそう思う?」


 彼女の言い方には含みがあった。


「つまり、何が言いたいの?」


「わたしが言いたいのは……」


 彼女は少し不機嫌そうな顔で太陽を睨んだ。入道雲が浮かぶ、夏の低い空。


「正しさを振りかざして他人を攻撃するのは卑怯だってこと」


「……つまり、正しさはずるい?」


 彼女は少し困った顔をした。


「つまり、正しさっていうのは強すぎると思うの」


 強すぎる。


「だから、正しさを使って人を糾弾する人は、やさしくなきゃいけないって思う。言ってること分かる?」


「きりがない」


 俺が呟くと、佐々木は少し戸惑ったような顔をした。


「街で人殺しが起こるとするだろ」


「うん」


 彼女は人形に向けるような冷めた視線で俺を見ていた。そんな気がしただけだったのかもしれない。


「被害者は誰?」


「殺された人かな」


「石を投げるのは?」


「……遺族とか、友達とか」


「近隣の住民を不安にさせた。街の治安が悪くなった。誰かの仕事が増えた。社会のルールを破った。被害者は?」


「……たくさん」


「石を投げるのは?」


 彼女はしばらくの間押し黙ったあと、「みんな」と答えた。


「みんなが殺人者を責めるのは、正しい? 正しくない?」


 彼女は黙って俯いてしまった。俺は言葉を探した。


「ねえ、ライオンとシマウマはどっちが強いと思う?」


 俺がそう訊ねると、佐々木は奇妙なものでも見るような目をした。


「ライオンでしょ?」


「種としては?」


「……ライオンじゃないの?」


「ライオンの餌は何?」


「……シマウマ?」


「シマウマの餌は?」


「草」


「ライオンはシマウマを食べる。じゃあ、もしシマウマが滅ぶとライオンはどうなる?」


「……食べるものがなくなる」


「ところで、シマウマはライオンが滅んだら困るかな?」


「……困らない、んじゃないかな」


「シマウマの数が減ると、食糧がなくなってライオンの数も減る。ライオンが減るとシマウマが増える。ライオンはシマウマがいるからこそ生きていける。強いのはどっち?」


「……つまり、何が言いたいの?」


「シマウマっていうのは油断ならないってことだよ。種の生存や繁栄が弱肉強食の「強」と呼ばれるなら、草食動物の方が「強」なんだ。個体数や繁殖力の面で見ても。肉食動物は草食動物に支えられてようやく生きていられる。だからこそ腕力なんかが強くなったのかもしれないけど」


 俺は一瞬、自分が何を言いたかったのか忘れてしまった。


「ライオンがシマウマを食べているのを見ると、俺たちはシマウマの方が弱いと思いがちだけど……。逆なんだよな。ライオンは弱いからこそ牙を研いでいるんだ。そうしないと生きていけないから。でもライオンがシマウマを殺すと、シマウマが可哀想だとかなんとか言い出す奴がいるんだ」


 言葉は勝手に吐き出された。俺はほとんど何も考えずに口だけを動かしていた。


「シマウマに自分を重ねられる奴はさ、自分が幸運だって気付かないんだ。草だけ食べてれば生きていけるように生まれついてるんだよ、そういう奴は。でも肉食動物として生まれたら、シマウマを食べずには生きていけない。つまり俺が言いたいのは、ライオンはもっと憐れまれるべきだってこと」


「食べられたシマウマは?」


「食べられたシマウマも」


 佐々木はしばらく考え込んでいた。俺はその間に自分の言葉を思い出そうとしたけれど、できなかった。


「シマウマがライオンを責めるのは分かるよ。でも第三者がライオンを責めるのは間違ってる」


「誰がライオンを責めたりするの?」


「ときどきそういう奴がいる」


 やがて彼女は小さく溜め息をついてから、からかうような軽い調子で笑った。


「シマウマも砂漠化で大変だろうけどね」


 彼女の言い分は正しい。俺の言い分は感情的だった。


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