03-03
十一月に入ってから、俺は人語を解する猫と崖の夢を、毎晩のように見続けていた。
猫は俺に「きみはうそつきだ」と言い続けた。
言われ続けたせいで、自分が本当にうそつきだという気がしてきたくらいだ。
「この島では」、と猫は言う。崖は島にあるのだ。だから浜と海が見える。
「一定の年齢、一定の条件に達すると、みんな空を飛ぶ」
「どうして?」
俺がそう訊くと、「誰もそんなことは考えない」と猫は言った。
「そう決まっているし、みんな知っている。だからみんな、飛ぶことに抵抗を持たない」
ぷかぷかと宙に浮かびながらあくびをすると、猫は退屈そうに尻尾を動かした。
「きみはなぜ飛ばない?」
「怖いから」
「飛べないことが? それとも飛ぶことが?」
「いや」
「じゃあ何が怖い?」
猫は不愉快そうに髭を揺らした。
「一度飛んだら、飛び続けなきゃいけないってことが怖いな」
空を見上げる。島は真夜中だった。星のきらめきにまじって、何人もの人の小さな影が空に浮かんでいる。
彼らは実に自然に、楽しそうに空を飛んでいた。
「どうしても飛ばなきゃいけないの?」
俺はそう訊ねてみた。猫は器用に首を横に振った。
「飛ばない奴もいる。でも、飛ばないままでいるというのはすごく難しい。体力も意思もいる。何より、一度飛ばないと決めた奴がもう一度飛ぼうとするのは、普通に飛ぼうとするよりずっと難しい」
夢の中で俺は、飛ぶことについてさまざまな知識を持っている。
猫がどのような存在なのかについても、島がどのような場所であるかということも。
でも、夢から醒めてしまうと、すべて思い出せなくなっている。だから俺はいつも奇妙な気持ちで目をさます。
目が覚める直前、猫は俺に向けていつも、「無理に飛ぶこともない」と苦々しそうに呟く。
だから俺は近頃、奇妙な虚脱感とともに目を覚ます。毎朝。
◇
近頃の夢見が悪いのも、クレハや白崎の話に集中できないのも、ぜんぶ傍に佐々木春香がいないことが原因だ。
そのことがちゃんと俺には分かっていた。
佐々木春香がいないと分かっていても、俺は屋上を訪れ続けた。ほとんど中毒的に。春先にもそうしたように。
けれどいるのはクレハだけだった。クレハはいつも煙草を吸っていた。よく誰も気付かないものだ。
このままでは、佐々木春香は二度と屋上に現れないだろう。そのことはよくわかった。
それはべつに――俺の心情はべつとして――悪いことではないのかもしれない。
これからの季節、屋上は今よりもずっと冷え込んでくる。こんな場所に居れば風邪を引く。
こんな場所に、人は長居するべきではない。
第一、佐々木春香に対して、いったい俺が何を言えるというんだろう?
どうして屋上に来なくなったのかなんて訊ねたってどうしようもない。
俺と彼女はべつに約束をしていたわけじゃないんだから。
俺たちの間には「ただなんとなく」のやり取りしかなかった。
佐々木が屋上に来なくなった理由が分からない。想像さえつかない。
俺に何かの落ち度があったのかもしれない。心当たりは山ほどある。
あるいはたいしたことのない気まぐれなのかもしれない。
でもとにかく彼女は屋上を訪れなくなった。
俺はそのことに強い影響を受けている。たしかなのはそれくらいだ。
クレハと話していても会話に集中できなくなった。
家に帰って映画を観ても本を見ても内容がちっとも頭に入ってこなかった。
それでも俺はうまくやろうとしてみた。なんとかうまく振る舞おうとしてみた。
けれど無駄だった。彼女のいない生活というのは抑揚に欠けていて無感動だった。
俺の様子は傍から見ていたら奇妙だったことだろう。ずっと上の空で、話を聞いていない。
クレハは俺を面白そうに眺めていた。
「見ていると面白い」と言いながらおかしそうに笑った。
白崎は曖昧な表情で首をかしげた。
「ひょっとして、わたしのせい?」と大真面目に訊いてきた。
相変わらず何を考えているのか分からない、どうでもよさそうな顔で。
でも彼らは間違っている。面白くなんてないし、白崎のせいじゃない。
おかしな話でもないし、どうでもいい話でもない。それでも俺に反論する気力はなかった。
佐々木春香と話をしないわけにはいかない、と俺は思った。
けれどそれは、教室の中で佐々木春香に話しかける、ということだ。
あるいは廊下でもグラウンドでもかまわないんだけど、要するに不特定多数の目のあるところで、だ。
それは実に難しそうなことだ。屋上以外の場所で佐々木と話している自分を想像できない。
話しかけないわけにはいかないのだ。それは分かっている。
でも、何を言えばいいんだ?
◇
「告白でもすれば」
クレハはどうでもよさそうに言った。
「好きって言えば」
白崎も似たようなことを言った。
彼らはたぶん正しい。
でも率直に言って、俺は佐々木と付き合いたいわけではなかった。
ただ傍に居てほしいだけだ。なんでもない話をしたいだけだ。
そして俺は佐々木に対して責任を負いたくない。怖くもある。理屈でもある。
頭の中でなら、彼女と付き合ってデートをして手を繋いで――なんてことを考えるけれど。
もし仮に、仮に、佐々木が俺のことを好きだと言ったとしても、俺は絶対に彼女と付き合ったりはしないだろう。
絶対に。それははっきりしている。ちゃんと分かるのだ。あるいは彼女にもそれが分かったのかもしれない。
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