03-01


 

 佐々木春香と俺はクラスメイトだった。

 だから俺たちは顔を合わせていないわけではなかった。


 ある朝、俺はためしに教室で佐々木に向けて「おはよう」と声を掛けてみた。

 佐々木が屋上に来なくなってから一週間くらい経った頃のことだ。

 

 佐々木は当たり前のように返してきた。「おはよう」と。

 

 俺たちは今まで、教室では一度も声を掛けあったことがなかった。

 俺と彼女が話すのはいつだって屋上だった。屋上以外ではありえなかった。

 俺たちの中で、屋上という場所は――あるいは状況は――それほど大きな意味を持っていた。

 

 そして彼女は屋上に現れなくなった。そこに何の意味もないわけがなかった。





「なにかあったの?」

 

 ある水曜、白崎美雪が放課後の図書室でそう訊ねてきたとき、俺はとても戸惑った。

 彼女はいつものようにどうでもよさそうな態度だった。それだけに違和感を持った。

 

「何の話?」


 何の話なのか分からなかったから、当然俺はまずそう問い返した。


「佐々木さんとさ」


 俺の心臓はどきりと跳ねた。ちょっと嫌な感じの跳ね方だった。


「なぜ?」


「様子が変だったから」


「俺の?」


「うん。まあ、そう」


「質問なんだけど」


「なに?」


 彼女はそのとき「愛のゆくえ」を読んでいた。彼女はいつもブローティガンばかり読んでいる気がする。


「俺の様子がおかしいことと、佐々木が関係しているなんて、どうしてそう思った?」


「仲良かったでしょ?」


 俺は答えに窮した。


 佐々木と俺の関係は、誰にも知られていない、と思っていたわけではない。

 毎日のように会っていたのだから、気付く人間がいてもおかしくはない。そう思ってはいた。


 でも、それを白崎が知っているというのは、少しどころではなく、かなり意外だった。

 だって彼女は、他人に興味がなさそうに見えるから。


「べつに、言いたくないなら無理には訊かないけど」


 俺の沈黙を誤解したのか、彼女は質問を取り下げた。


 白崎がそういう態度をとるのは、俺からするとかなり意外だった。


 他人のことなんてどうでもよさそうに見える。興味なんてなさそうに見える。

 だから、そういう質問をしてきたことも、こっちの態度を見てそれを取り下げたことも、すごく意外だった。


 他人が何を考えているかなんて、分かる奴はいない。

 

「そんなに目に見えて様子が変だった?」


 俺はそう訊ねてみた。白崎は首を小さく横に振った。


「べつに普通かな」


「……さっき様子が変だったって言ってなかった?」


「様子が変なのは、ふたりとも。どっちも一人でいるときは、普段通りだけど……」


 ふたりとももなにも、俺たちふたりは屋上以外じゃろくに話もしていない。


「目が合ってた」と白崎は言った。


「どういう意味?」


「そのままの意味。普段はふたりとも、互いに視界に入らないように意識してたみたいだから」


 俺はその言葉に少し戸惑った。白崎は相変わらずどうでもよさそうな口調だった。


「よく見てるね」


「まあ、わりとね。でも最近、視線がぶつかるようになった。わたし以外は気付かなかっただろうけど」


「どういう意味?」


「そのままの意味」


 俺はそれ以上質問を続けるのをやめた。

 放課後の図書室は静かだった。俺たち以外には誰もいない。


 彼女は少し考え込むような間を置いてから、いつものどうでもよさそうな顔で話を始めた。


「わたしの家族構成、知ってる?」


「え?」


「家族構成」


「知らない。もちろん」


「父と母は健在。母方の祖父母と同居。きょうだいは妹が一人。妹はいま小学五年生」


「……それが?」


「どう思う?」


「どうって?」


「純粋な感想として」


「……べつに、どうとも」


「うん。かもね」


 彼女ははぐらかすみたいに首を傾げた。俺には彼女が何を言いたいのか分からなかった。


「わたしと妹は、父親が違うんだよ。両親は再婚で、わたしは母親の連れ子だった。物心つく前の話だけど」


「……それで?」


「それで――」


 彼女は何かを言いかけたけれど、結局口には出さなかった。


「どうして俺にそんな話を聞かせるんだ?」


「聞きたい? ほんとうに?」


 その言い方は、少し奇妙だった。

 まるで、彼女のしている話が、俺に関係あるみたいな言い方。

 

「わたしはそのことをずっと前から知ってたし、だから結構前から、きみのことを気に掛けてたんだ」

 

 冷汗が滲み出るのを感じた。嫌な予感があった。


 彼女はどうでもよさそうに口を開いた。

 けれど、俺にだっていいかげん分かっていた。


 そう見えるだけで、彼女はいつも真剣に話をしている。

 

「つまり、こんなこと、わたしが言っていいのかわからないけど……」


「――待ってくれ」


 遮ると、彼女の表情は少しこわばった。その変化が俺にはちゃんと分かった。

 分かろうと思えば分かるものなのだ。


「なに?」


「……きみはきっと人違いをしているんだと思う」


 俺の言葉に、白崎は少し考え込んだみたいに見えた。

 それから、特にどうということもなさそうな、いつもの無表情で、


「うん。そうかもね」


 ささやくように呟いて、頷いた。


「質問してもいい?」


 俺が訊ねると、白崎は意外そうに目を開いた。


「なに?」


「きみの妹の話だけど」


「うん」


「……べつに、意味のない質問なんだけど」


「なに?」


「名前は、なんていうの?」


「きっと笑うよ」


「どうして?」


「安易だから。わたしの名前もそうだけど」


 心臓がいつになくうるさかった。頭の中には、答えを訊くことに強い抵抗感があった。

 それでもどうしても知りたかった。知ったところでどうなるということでもないけれど。


「夏の海って書いて、なつみ。夏生まれだから」


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