02-05



 クレハが屋上に現れた日から、佐々木は俺と言葉を交わさなくなった。


 俺にはその理由が分かるような気がした。ただの推測だし、間違っているのかもしれない。

 それでも、根拠はないけれど、自分の推測は間違っていない、という確信があった。


 佐々木と俺との間には暗黙の了解のようなものがあった。

 屋上という空間について、放課後という時間について、無意識下の約束のようなものがあった。

 俺も彼女も口にこそ出さなかったけれど、お互いそれに従っていた。


 彼女はそこにいるだろう、と俺が思う。彼女はそこにいる。

 俺がそこにいるだろう、と彼女は思う。俺はそこにいる。

 

 放課後の屋上はそのようにして成立していた。

 誰が決めたわけでもないし、誰かがそうしようとしたわけでもない。

 それでもそのように機能していた。


 にもかかわらず、クレハが現れた。そして俺がクレハを受け入れた。

 彼女はそのことに違和感を覚えたのだろう。


 自惚れるなら、裏切られた、と感じたのかもしれない。

 あるいは、自分が感じていた暗黙の了解は、ただのひとりよがりだったのかもしれない、とすら思ったのかもしれない。


 理由に関しては推測だが、事実として俺に対する彼女の態度は硬化した。とても分かりやすく。




 けれど、それもたった二日間のことだった。

 金曜の夕方、屋上で顔を合わせたとき、俺は佐々木に訊ねた。


「明日は?」


 佐々木は怪訝そうな顔をした。


「なにが?」


「水の中のナイフ」


 彼女にはそれだけで言葉の意味が通じたようだった。

 俺は喉の奥から苦いものがせり上がってくるのを感じた。


「……親は、いないけど」


 彼女が俺に向けたのは、いつものような親しげな視線ではなかった。

 からかうような、近い場所からの視線ではなかった。

 あまり口をきかない顔見知りに投げかけるような視線。


 彼女の顔からは感情が読み取れなかった。

 俺に対して開かれていなかった。





 これではまずい、とそのときの俺は思ったのだ。

 こんなつもりではなかったのだ、と。

 

 俺はこんなことになると思ってクレハを受け入れたのではなかった。

 けれど実際の結果として、佐々木の態度は変わってしまった。

 

 このままでは、彼女はすぐに俺から離れていってしまう。そう思った。


 つまり俺は焦っていた。彼女が屋上から去ってしまうような気がした。

 そしてそこに残されるのは俺とクレハだけだ。俺は彼と一緒に煙草でも吸うことになるだろう。


 それが悪いというわけではない。でも俺は佐々木と一緒にいる時間が好きだった。


 彼女が俺をからかうのが好きだった。彼女と音楽を共有するのが好きだった。

 吹き抜ける風にたなびくマフラー。カーディガンの袖に隠れた手の甲。

 隣に座っていると感じられる、感触を伴わない温度。


「彼女をここに留めなければ」と俺は思った。

 そしてそうするためには、一緒に「水の中のナイフ」でも観るしかない、と思った。 


 結果から言ってしまえばそれは間違いだった。





「急にどうしたの?」


「そっちが言ったんだよ。観たくなったらいつでも言ってくれって」


「それは、そうだけど……」


「映画は観たいんだ。その上、借りるわけにはいかないんだろ」


「……うん」


「だったら……」


 他に手段はない、と言いかけて俺は言葉を止めた。

 心臓が奇妙なリズムで脈打っているのが分かる。


 彼女はあまり乗り気ではないように見えた。

 でも言葉を引っ込めるわけにはいかなかった。


 怖気づいてやめてしまったら、もう二度と彼女に対して同じことは言えなくなるだろう。

 彼女もまた、俺に対してそのことを提案しなくなるだろう。


「かまわないよ」と彼女は言った。

 幸いその場にクレハはいなかったから、会話はとてもスムーズに進んだ。

 クレハはその日、少し顔を見せただけで、早々に帰ってしまっていた。何かが思う通りじゃなかったんだろう。


「明日も、親、いないから」


 佐々木はそれ以上何も言わなかった。俺の顔を見ようともしなかった。

 だから今度は、俺が現実的な事柄について確認しなければならなかった。


「何時に行けばいい?」


 訊ねると、佐々木は黙り込んでしまった。無視するような沈黙ではなく、考えるような沈黙。

 俺は自分の声の震えに気付いていた。

 

「何時なら平気?」


 佐々木は不意に顔をあげ、そう訊ねてきた。


「何時でも」


「じゃあ、お昼過ぎに」


 俺は少し困った。「昼過ぎ」というのが具体的にどの時間をさすのか分からなかった。


「一時半頃で平気?」


「うん」


「分かった。その頃に訪ねる」


「……あのね」


 佐々木はそのとき何かを言いかけた。俺に分かったのはそれだけだった。

 佐々木が何を言おうとしているのかは分からなかった。


 当たり前のことだ。他人の考えていることが分かる奴なんていない。





 でも、そのとき俺は何かを察するべきだった。

 彼女が何を求めているかについて真剣に考えるべきだった。


 彼女が求めていたのは「維持」ではなく「発展」だった。

「継続」ではなく「建設」だった。「隔絶」ではなく「適応」だった。


 俺とは真逆だった。


 土曜日の空はよく晴れていて、俺は約束通りの一時半ちょうどに佐々木の家を訪れた。

 佐々木は品のよさそうな――彼女は普段着と呼んでいた――服を身にまとっていた。


 私服姿の佐々木は、学校で見るよりも数倍大人びて見えて、俺は少し気後れした。

 

「誰かを家に招くのって、久しぶりなんだよね」


 そう言いながら、彼女は自然な態度を装ったふうに笑った。

 彼女の態度は硬化したままだった。緊張だけが理由ではなく。


 家の外壁、家具、小物、インテリア、観葉植物、電化製品までもが、威圧感を放っている気がした。

 けれどその空間は、佐々木にとってはごく自然なものなのだろう。

 そう考えると同時に、俺は佐々木に対して、触れがたいような、遠いような、そんな印象を受けた。

 目に見えない断絶が俺と彼女の間に感じられた。


 佐々木は俺に慣れた手つきでコーヒーを淹れてくれた。

 コーヒーカップまでもが威圧的だった。

 

 俺は彼女に何かを言った。たぶん、家具なり、観葉植物なり、彼女の私服なりについて。

 彼女は照れたように笑った。そんなふうに彼女が笑うのを、俺は初めてみたような気がした。


 俺と佐々木の関係というものは一方的なもので、常に彼女が圧倒的優位に立っている。そう思っていた。

 けれど彼女の家にいる間、そのような印象はどこかへ消え去ってしまっていた。


 俺はまるで彼女が自分と対等であるかのように感じ、また彼女と自分がかなり親密であるかのように感じた。

 それが正しい印象なのか、間違った印象なのかは、今でも分からない。


 途方もない断絶を挟みつつも、かぎりなく親密であるかのように、そのときは感じたのだ。


 佐々木は両親がいないと言って俺のことを誘ったし、事実佐々木の両親は姿を見せなかった。

 けれど俺は、彼女の両親は先週や今週に限らず、ずっとこの家にいないのだろう、と、そのときなぜか思った。


 柔らかな午後の日差しが窓から差し込んでいた。外は少し肌寒かったけれど、室内は空調のおかげで暖かかった。

 俺と彼女はたいした話もしないまま、映画を観ることになった。




 

 彼女の家のテレビは俺の家のテレビの四倍ほどの大きさだった。

 重大な発見。





 俺たちはその日何もしなかった。映画を観ただけだった。

 映画を観る為に佐々木の家に行ったのだ。当然のことだ。


「水の中のナイフ」は良い映画だった。中身はちゃんと頭に入っていた。

 本当は集中できないんじゃないかと思って不安だったけれど、杞憂に終わった。


 良い映画だった。それは確かだ。

 でも土曜の昼下がりに女の子の家で観るのに向いている映画じゃない。


 それに、このような場所で、俺のような人間が観るには、少し"前向き"すぎる映画だった。


 観終わった後、俺たちは感想を言い合うこともなく、ぼんやりと話をした。


 不意に、彼女は俺にこう訊ねてきた。


「どうして、来たの?」と。


 俺はその問いに対して、正確な答えを返さなくてはならなかった。


「駄目だった?」と俺は訊ね返した。彼女は首を横に振った。


「駄目だっていうんじゃないけど……」


 俺は何も言わずに続きを待った。佐々木は明らかに戸惑っていた。


 どこかぼんやりとした様子で言葉が続く。

 頭の中から無理やり手繰り寄せたみたいな、曖昧な言葉だった。


「わたし、最近ずっと考えてたんだけど、きみはわたしを誤解しているような気がする」


「誤解?」


「つまり、きみはわたしという人間を、過大に評価しているような気がする」


「評価というものに過大も過小もない」と俺は答えた。


「そうかもしれないけど、わたしはそれがすごく嫌なの」


 俺には彼女が何を言いたいのか、よく分からなかった。いつものことだけれど。


「つまり、壁越しに話しかけられているような感じがするんだ」


「壁?」


「すごく遠いんだよ。だから、わたしは……」


 俺は少し待ったけれど、彼女の言葉に続きはなかった。開かれていない。閉ざされている。

 そして俺は、それから佐々木に何かを言うこともできず、当然のように彼女の家を出た。


 家に帰る頃には五時を過ぎていて、もうその頃には外は真っ暗だった。

 俺は寄る辺のないような気持ちで帰路についた。

 

 彼女は俺を玄関先まで見送ってくれた。

 綺麗な外壁。あまり広くはないが手入れの行き届いた庭。


「それじゃあ」と俺は言った。空気は冷たく、吐き出した息は白かった。部屋の中とは違うのだ。


 俺の声に、彼女はやさしげな微笑を浮かべた。その笑みに、俺は少しだけ安心した。


「またね」、と彼女は言った。いつもよりずっと澄んだ表情で。


 でもその言葉は嘘だった。


 彼女はその日以来、一度も放課後の屋上に姿を見せていない。 


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