02-04


 例の男子生徒――冷静だった方――の名前は、萩原クレハ、というらしかった。後で知ったことだ。

 奇妙な名前だ。人の名前にケチをつけたいわけじゃないが、俺だったら嫌だ。


 それでも彼にはその名前が似合っていた。言われてみればそれ以上はないというくらい。

 少し気取ったふうな名前でもある。学生の間では「気取っている」と思われるのは少し不便だ。


 それでも彼は萩原クレハだったし、萩原クレハ以外の何者にもなれなかった。

 

「どうして、行かなかったんだ?」


 そう彼が俺に訊ねてきたのは、十一月の半ばを過ぎたある金曜のことだった。

 屋上で彼と初めて話したときから、一ヵ月近い時間が過ぎていた。


「何の話?」


「佐々木の家に」


「行ったよ」と俺は答えた。実際、俺は佐々木の家に行った。


「二度目はだろ。一度目の話だよ」


「ああ」


 俺は少し考え込んだ。いくら考えてもうまい答えは浮かんでこなかった。


「約束はしていたんだろ?」


「まあね」

 

 俺たち二人は放課後の屋上に立っていた。佐々木の姿はない。

 初めて話した日以来、クレハは放課後の屋上に頻繁に顔を出すようになった。

 そしてほとんど同じタイミングで、佐々木が屋上に顔を出す回数は減ってしまった。


 けれど、佐々木が屋上を訪れなくなった理由はクレハにはない。

 原因は俺だ。きっと。





 クレハはいつも屋上で煙草を吸う。俺にも勧めてくる。俺はいつも断る。


「吸うんだろ? いらないのか?」


「どうして吸うって思う?」

 

 最初にクレハが勧めてきたとき、俺は自分の肩に鼻を当てて匂いを確認してからそう訊ねた。

 俺の態度を眺めながら、彼はおかしそうに笑う。


「匂いじゃないよ。匂いはしない。ただおまえは煙草を吸うだろうなと思った」


「なぜ?」


「バカそうだから」


「ああ、なるほど」


「意味が分かる?」


「褒めてるつもりなんだろ?」


 彼はくつくつと笑った。





 佐々木との約束を破棄した次の週の水曜、図書委員の仕事は休みだった。

 白崎美雪がそう言っていた。どうでもよさそうに。


「今日は放課後、図書室に来なくていいって」


「誰が?」


「先輩」


「先輩ってどの? どうして?」


「知らない。とにかく来なくていいんだって」


 俺は少し奇妙に思ったけれど、それ以上は何も訊かなかった。 

 白崎はすごくどうでもよさそうな態度だったし、そうである以上、問いを重ねる気にはなれなかった。

 だから俺はその日、前々から気になっていた水曜日の屋上を訪れることにした。





 その日は風が強く、雲はめまぐるしく形を変えた。

 鯨は犬になり、犬は男の横顔になり、男の横顔は巨大なタコになり、タコは帆船になった。

 

 屋上には佐々木の姿はなかった。萩原クレハが煙草を吸っているだけだった。

 風の強い日だというのに、彼はみじめなほど熱心に煙草を吸っていた。煙に巻かれ、苛立たしげに空を睨んでいた。

 空は彼に睨まれて戸惑ったみたいに風を止ませた。一瞬のことだったけど。


 それでいい、と俺は思ったものだった。煙草というのは涙ぐましいほど惨めに吸うべきものなのだ。

 不格好で呪われている。


「ここに人がいなかった?」と俺はまず彼に訊ねた。

 

 彼は俺の顔を見て、煙を吐き出して、笑った。少なくとも焦りや怯えは見えなかった。


「今日も約束か?」と彼は訊ね返してきた。


「今日は違う。水曜だから」


「ふうん」


 彼は何も訊ねてこなかったし、俺もそれ以上説明する気はなかった。


 俺は説明というものが嫌いだ。


「それにしても、風が強いな」


「それで?」


「なにが?」


「ここに誰か来た?」


「佐々木春香のこと?」


 来たのか、と俺は少しショックを受けた。

 そしてすぐ後に、彼は俺の表情を見て笑い始めた。


「心配するなよ。来てないよ。会ってない」


「……え?」


 俺が面食らっていると、彼は溜め息をついた。それでも笑っていた。


「じゃあ、どうして佐々木春香のことを言ってるって思った?」


「先週の金曜、すれ違ったんだよ」


「金曜……」


「ここでおまえと会った日だよ。約束があるって言ってたし、屋上なんて、こんな場所……」

 

 彼は忌々しそうな声音で吐き捨てるように続けた。


「こんな場所に来る奴、そんなにいない。おまえの相手はあいつだったんだろ」


 俺はどう答えるべきか迷ったが、結局頷いた。真実を教える義理はないが、嘘をつく旨味もない。


「俺の名前、知ってる?」


 彼はそう訊ねてきた。


「……知らない」と俺は答えた。


「だろうな。俺もおまえのことを知らない。でもこうなってみると不思議だな。どうして今まで気にもしなかったんだろう」


「……どういう意味?」


「俺たちはよく似ているってことだよ」

 

 俺は言葉に詰まった。彼は俺の表情の変化を楽しむみたいに笑った。とてもさわやかに。



 萩原クレハは実に多くのものに対して苛立ちを覚えていた。 

 秋の風と肌寒さ、屋上、モミジの枯葉、グラウンドの広さ、部活動、勉強、煙草、自転車。


 どうしてそんなものに対して苛立ちを覚えるのかは分からない。

 とにかく彼は苛立っていて、憎んでいて、呪っていた。

 

 俺たちは似た者同士だ、と萩原クレハは言った。俺にはよく分からなかった。

 

「友達になろう」


 彼はその日、俺に向けてそう言った。俺は頷いた。


 友達が増えるのは喜ばしいことだが、俺はそんな理由で頷いたわけではない。

 きわめて打算的な意味で、頷いた。


 佐々木春香以外の煙草を手に入れる為に。

 たいした期待を抱いていたわけでもないけど。





「それで、どうして行かなかったんだ?」


 十一月の半ば、金曜、屋上。萩原クレハはその問いを繰り返した。


「ああ」と俺は唸るように相槌を打つ。それから数秒考え込んだ。 

 難しい質問だ。簡単には答えられそうにない。


 けれどそのとき、不意にひらめいた。これ以上ないというほど適切な答え。

 

 クレハの煙草からは甘い匂いがした。彼は横目でこちらを見ながら、俺の答えを待っている。


「行動には責任が伴うっていうことを、忘れてしまわないか不安だったんだ」


 彼はしばらく押し黙ったまま煙草を吸っていた。

 やがて、吸い込んだ煙を長く吐き出す。そしてぼんやりと相槌を打った。


「なるほどね」と、笑いもせずに。


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