02-04
例の男子生徒――冷静だった方――の名前は、萩原クレハ、というらしかった。後で知ったことだ。
奇妙な名前だ。人の名前にケチをつけたいわけじゃないが、俺だったら嫌だ。
それでも彼にはその名前が似合っていた。言われてみればそれ以上はないというくらい。
少し気取ったふうな名前でもある。学生の間では「気取っている」と思われるのは少し不便だ。
それでも彼は萩原クレハだったし、萩原クレハ以外の何者にもなれなかった。
「どうして、行かなかったんだ?」
そう彼が俺に訊ねてきたのは、十一月の半ばを過ぎたある金曜のことだった。
屋上で彼と初めて話したときから、一ヵ月近い時間が過ぎていた。
「何の話?」
「佐々木の家に」
「行ったよ」と俺は答えた。実際、俺は佐々木の家に行った。
「二度目はだろ。一度目の話だよ」
「ああ」
俺は少し考え込んだ。いくら考えてもうまい答えは浮かんでこなかった。
「約束はしていたんだろ?」
「まあね」
俺たち二人は放課後の屋上に立っていた。佐々木の姿はない。
初めて話した日以来、クレハは放課後の屋上に頻繁に顔を出すようになった。
そしてほとんど同じタイミングで、佐々木が屋上に顔を出す回数は減ってしまった。
けれど、佐々木が屋上を訪れなくなった理由はクレハにはない。
原因は俺だ。きっと。
◇
クレハはいつも屋上で煙草を吸う。俺にも勧めてくる。俺はいつも断る。
「吸うんだろ? いらないのか?」
「どうして吸うって思う?」
最初にクレハが勧めてきたとき、俺は自分の肩に鼻を当てて匂いを確認してからそう訊ねた。
俺の態度を眺めながら、彼はおかしそうに笑う。
「匂いじゃないよ。匂いはしない。ただおまえは煙草を吸うだろうなと思った」
「なぜ?」
「バカそうだから」
「ああ、なるほど」
「意味が分かる?」
「褒めてるつもりなんだろ?」
彼はくつくつと笑った。
◇
佐々木との約束を破棄した次の週の水曜、図書委員の仕事は休みだった。
白崎美雪がそう言っていた。どうでもよさそうに。
「今日は放課後、図書室に来なくていいって」
「誰が?」
「先輩」
「先輩ってどの? どうして?」
「知らない。とにかく来なくていいんだって」
俺は少し奇妙に思ったけれど、それ以上は何も訊かなかった。
白崎はすごくどうでもよさそうな態度だったし、そうである以上、問いを重ねる気にはなれなかった。
だから俺はその日、前々から気になっていた水曜日の屋上を訪れることにした。
◇
その日は風が強く、雲はめまぐるしく形を変えた。
鯨は犬になり、犬は男の横顔になり、男の横顔は巨大なタコになり、タコは帆船になった。
屋上には佐々木の姿はなかった。萩原クレハが煙草を吸っているだけだった。
風の強い日だというのに、彼はみじめなほど熱心に煙草を吸っていた。煙に巻かれ、苛立たしげに空を睨んでいた。
空は彼に睨まれて戸惑ったみたいに風を止ませた。一瞬のことだったけど。
それでいい、と俺は思ったものだった。煙草というのは涙ぐましいほど惨めに吸うべきものなのだ。
不格好で呪われている。
「ここに人がいなかった?」と俺はまず彼に訊ねた。
彼は俺の顔を見て、煙を吐き出して、笑った。少なくとも焦りや怯えは見えなかった。
「今日も約束か?」と彼は訊ね返してきた。
「今日は違う。水曜だから」
「ふうん」
彼は何も訊ねてこなかったし、俺もそれ以上説明する気はなかった。
俺は説明というものが嫌いだ。
「それにしても、風が強いな」
「それで?」
「なにが?」
「ここに誰か来た?」
「佐々木春香のこと?」
来たのか、と俺は少しショックを受けた。
そしてすぐ後に、彼は俺の表情を見て笑い始めた。
「心配するなよ。来てないよ。会ってない」
「……え?」
俺が面食らっていると、彼は溜め息をついた。それでも笑っていた。
「じゃあ、どうして佐々木春香のことを言ってるって思った?」
「先週の金曜、すれ違ったんだよ」
「金曜……」
「ここでおまえと会った日だよ。約束があるって言ってたし、屋上なんて、こんな場所……」
彼は忌々しそうな声音で吐き捨てるように続けた。
「こんな場所に来る奴、そんなにいない。おまえの相手はあいつだったんだろ」
俺はどう答えるべきか迷ったが、結局頷いた。真実を教える義理はないが、嘘をつく旨味もない。
「俺の名前、知ってる?」
彼はそう訊ねてきた。
「……知らない」と俺は答えた。
「だろうな。俺もおまえのことを知らない。でもこうなってみると不思議だな。どうして今まで気にもしなかったんだろう」
「……どういう意味?」
「俺たちはよく似ているってことだよ」
俺は言葉に詰まった。彼は俺の表情の変化を楽しむみたいに笑った。とてもさわやかに。
萩原クレハは実に多くのものに対して苛立ちを覚えていた。
秋の風と肌寒さ、屋上、モミジの枯葉、グラウンドの広さ、部活動、勉強、煙草、自転車。
どうしてそんなものに対して苛立ちを覚えるのかは分からない。
とにかく彼は苛立っていて、憎んでいて、呪っていた。
俺たちは似た者同士だ、と萩原クレハは言った。俺にはよく分からなかった。
「友達になろう」
彼はその日、俺に向けてそう言った。俺は頷いた。
友達が増えるのは喜ばしいことだが、俺はそんな理由で頷いたわけではない。
きわめて打算的な意味で、頷いた。
佐々木春香以外の煙草を手に入れる為に。
たいした期待を抱いていたわけでもないけど。
◇
「それで、どうして行かなかったんだ?」
十一月の半ば、金曜、屋上。萩原クレハはその問いを繰り返した。
「ああ」と俺は唸るように相槌を打つ。それから数秒考え込んだ。
難しい質問だ。簡単には答えられそうにない。
けれどそのとき、不意にひらめいた。これ以上ないというほど適切な答え。
クレハの煙草からは甘い匂いがした。彼は横目でこちらを見ながら、俺の答えを待っている。
「行動には責任が伴うっていうことを、忘れてしまわないか不安だったんだ」
彼はしばらく押し黙ったまま煙草を吸っていた。
やがて、吸い込んだ煙を長く吐き出す。そしてぼんやりと相槌を打った。
「なるほどね」と、笑いもせずに。
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