02-02


「水の中のナイフ」


 と、不意に佐々木は言った。

 そのときイヤホンからは「スタンド・バイ・ミー」が流れていた。奇妙な話だ。


「探してみたらね、うちにDVDがあったんだよ。お父さんのだけど……」


 俺は少し驚いた。


「ほんとに?」


「うん。それで、なんだけど」


 彼女は少し言いづらそうにしていた。

 指先と指先をくっつけて、何か言いたげな表情のまま、俯いていた。


「今度うちに観に来ない?」


「……なんて?」


「だから、観に来ない?」


 俺は言葉を失った。


「貸してもらうわけにはいかない?」


「お父さんのだから。持ち出すのは、難しいと思う。でも、今週の土日、うち、両親いないから」


「どうして?」と俺は訊いた。


「それ、重要な質問?」


 と彼女は反問した。もちろん重要な質問じゃない。

 ただ訊いてしまっただけだ。

 

 それこそ、土日に両親がいないのなら、土日の間だけ貸してくれればいい話じゃないかと思った。

 それを実際に口に出す勇気は、俺にはなかった。とっさのことに俺の頭は混乱していた。


 佐々木の態度はどこかしらおかしかった。何かを待つようであり、何かを期待するようであり、何かを恐れるようでもあった。

 とにかく平常通りじゃなかった。もちろん俺の頭も普通じゃなかったが、それはまあいつものことだ。


「映画を観るために、きみの家に?」と俺は訊ねた。


「そう。映画を観るためだけに」と彼女は繰り返した。


「映画を観るだけ」と俺はもう一度繰り返した。


「そう、映画を観るだけ」繰り返すたびに言葉は段々とそれ以外の意味を獲得しつつあるような気がした。


「なぜ?」と俺は訊ねた。


「映画を観るために」と彼女は答えた。彼女は笑っていなかった。からかっているわけではないのだ。

 いつも通り、俺には彼女が何を考えているのか、さっぱりわからなかった。


 そして俺たちは目を合わせ、約束を交わした。彼女は俺の小指に自分の小指をからませて歌を歌った。 

 例のあの歌だ。大袈裟な言い方をすれば、それは俺と佐々木が初めて交わした契約だった。

 

 佐々木の歌を聴きながら、俺は母親のことについて考えていた。





 佐々木春香とその会話を交わしたのは木曜日のことだった。

 そして翌日の金曜、俺が屋上に向かうと、そこには二人の男子生徒が立っていた。佐々木の姿はなかった。


 彼らは向かい合って何かを話していた。片方は今にも泣きだしそうな、子供のような表情をしていた。

 

 俺はひそかに苛立っていたけれど、それは俺の都合だ。彼らに理解を求めるのは無理がある。


「それで、どうするつもりなの?」


 と片方が言った。


「どうするって、どうしようもないだろ」


 もう片方がひどく混乱したふうに言った。感情が高ぶっているようだ。

 彼らは俺がこの場にきたことに気付かなかったんだろうか?


「それでもどうにかしないわけにはいかないだろ」


 冷静な方が諭すように言った。


「どうすればいいんだよ」


 冷静な方は呆れたように視線をそらし、かすかな溜め息をついた。 

 そのとき、俺と彼の目が合った。


 何か言われるかと思ったけれど、何も言われなかった。

 取り込み中のようだし、と思い、立ち去ろうとしたとき、もう片方の男子も俺の存在に気付いた。


「おまえ、そこで何してるんだ」

 

 ひどく興奮した様子で、彼は俺に向けてそう怒鳴ってきた。


「なにって……」


「盗み聞きかよ?」


 彼の神経はとても高ぶっているようだった。俺は溜め息をつきかけて堪えた。


「べつにそういうつもりはない。単に人と会う約束があったんだ」

 

 半分嘘だった。俺と彼女はそんな約束を交わしたことがなかった。


「誰と」


 と彼は訊いた。無神経な奴だ。けれど俺は答えられなかった。

 答えたとしても、彼らが信じるとは思えなかった。

 

 俺の口籠った様子を見て、彼は言葉を重ねかけたけれど、もう片方がそれを制した。


「落ち着けよ。おまえ、今、八つ当たりしてるんだぜ」


 冷静な方の言葉に、もう片方は尚も何かを言いたげにしていた。

 

「誰にでも、簡単に人には話せないことがある。なあ、そうだろ」


 けれど結局、冷静な方のその言葉を最後に、彼の精神は落ち着いたようだった。


「……そうだな。悪かったよ」


 俺は頷いた。


「こっちこそ悪かったよ。タイミングが悪かったみたいで」


「いや。おまえのせいじゃない」


「そう」

 

 だったら誰のせいなんだ? と俺は訊きたかった。訊かなかったけど。





 二人の男子生徒はそれから間もなく屋上を後にしようとした。

 

 ぼんやりとその後ろ姿を眺めていると、何かを思い出しそうな気がした。


 去り際、冷静だった方の男子が俺に声を掛けてきた。とてもさわやかに。

 もう片方は早々に屋上を去って行ったが、そいつは入口で少しの間立ち止まっていた。


「悪かったな」と彼は言った。


「気にしてない」と俺は言った。


「バカな奴っているもんだぜ」と彼は言った。とてもさわやかな顔つきで。


「え?」


 俺は一瞬呆気にとられた。屋上には俺たち二人しかいなかった。

 秋の風が吹き抜けた。彼は小さく笑った。


「奴らには想像力ってものがないんだ」


「……何の話?」


「だから、バカな奴の話だよ」


 俺は何も答えずに彼の顔を見た。さわやかな笑み。技巧的だ。

 外面的性質と内面的性質は異なる。


「想像力がないから軽率で安易な行動を取る」


「……誰だってそうだよ」


 俺が答えると、彼は笑った。


「本当にそう思ってる?」


 俺は何も言えなかった。


「人には果たすべき責任ってものがあると思わないか?」

 

 何を答えればいいのか、分からない。背筋が理由もなくざわつく。

 言いようのない不快感。


 というよりも、むしろこれは……。

 胸の内側を言い当てられたような、不安。


「人は現実に生きている」と彼は言った。


「感情や意思は、行動を伴わなければ現実に影響を与えられない。そして行動には責任がつきものだ。そうだろ」


「どうして俺にそんなことを言うの?」と俺は訊いた。


「べつに深い意味があるわけじゃないよ。ただ言ってみたかっただけだ」


「嘘だね」と俺は言った。言ってみたかっただけだ。彼は小さく笑って溜め息をついた。


「バカばかりだよ」


「自分を含めてる?」


「もちろん」


 結局、彼はそれだけ言うと俺に背を向けて屋上を後にした。

 しばらく考えたけれど、やがて何を考えていたのか思い出せなくなってしまった。


 それからふと思い出した。さっきの男子の片割れ。あのやけに興奮していた男。

 あれはバスケ部の元キャプテンじゃないか。


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