02-01



 秋の風が木の葉を散らしている。屋上に吹く風も、刺すように冷たく、鋭くなってきた。


 佐々木と一緒に屋上にいるときも、俺は水曜の放課後について考えるようになった。

 そして、木枯らしの中、一人で音楽を聴いているかもしれない彼女のことを考えた。


 彼女は屋上に現れるとき、藍色のカーディガンを羽織り、格子柄の茶色いマフラーを巻くようになった。

 マフラーを巻いてしまうと彼女の口元はすっぽりと隠れてしまう。

 

 だから最近、彼女の表情の変化というのが、俺にはよく分からなくなっていた。

 笑っているのか、怒っているのか。そういうのが分からない。

 

「最近気になってる映画って、ある?」


 それでも会話はいつもの通り行われたし、実際佐々木はそのような質問を俺によくぶつけてきた。

 

「今上映してる奴?」


「じゃなくてもいいけど」


 俺は少し迷ったけれど、正直に答えた。


「水の中のナイフ」


「いつの映画?」


「忘れた。昔のやつ。前から気になってた」


「どんな映画?」


「知らない。観たことがないから」


「ふうん……」


「レンタルショップに置いてないんだよ」


「どうして?」


 そんなこと、俺が知るわけがなかった。

 俺が答えずにいると、彼女は困ったみたいに笑った。笑ったのだと思う。口元が隠れていたせいで、よくわからなかった。

 

 秋の屋上は俺たちにとって安らげる場所ではなくなっていた。風は刺々しく、気温は攻撃的だった。

 佐々木は早々に屋上を去るべきだった。俺はそう思う。彼女がどう思っているかは分からない。

 




 俺の部屋にあるDVDプレイヤーは、小学校を卒業した際に母が買ってくれたものだった。

 五千円くらいの安物だが、見る分には支障がない。

 

 俺にテレビゲームやマンガ本を買い与えることができなかった母はいつもそれを気に病んでいた。

 本人は否定するだろうけど。そして俺もべつに欲しくはなかったんだけど。とにかく気に病んでいた。


 だから母はその代わりに、俺に本を読ませ、映画を見せた。

 本は公立図書館で無料で借りられるし、映画はテレビでもやっていた。 

 だから俺は昔から本をよく読み、映画をよく見る子供だった。


 そういう奴が男子小学生の中にいればどうなるかと言えば、まあ浮くのが当然だ。


「休みの日? 映画を観るか本を読むかしてる。ごめん、ゲームとかよく知らないんだ」


 なんてことを言い始めるクラスメイトがいたら、気取りやがって調子にのんなよって俺でも思う。

 

 幸いにも小学校の頃、俺のクラスに俺と同じくらい性格の悪い奴はいなかった。

 だからみんな「ふーん。すげー。頭よさそー」みたいな適当な反応で受け流してくれた。


 けれど共通の話題を持たないというのは結構問題で、おかげで俺は「すごく仲の良い友達」というのを得ることができなかった。

 ひょっとしたら共通の話題がなかったせいではなく、俺の積極性に問題があったのかもしれない。

 まあそのあたりは何でもよかった。


 小学校の校庭には築山があった。丘のミニチュアのような小さな坂だ。

 クラスメイトたちは昼休みになるとその丘に向かって走っていき、転げまわって遊んでいた。


 俺はひとり教室に残って本を読んでいた。

 誰も俺のことを誘いはしなかったし、俺も参加しようとはしなかった。


 とにかくそういう生活が最初から最後まで続いていた。

 

 俺は豊穣で色彩鮮やかな孤独の中で暮らしていた。

 そこには温度があり、感触があり、四季があった。とても現実的だった。





「秋になると何かを忘れているような気にならない?」


 佐々木は笑いもせずに言った。


「何かって?」


「何か。具体的には分からないけど……」


 とにかく何か大事なもの。普段なら彼女は、そういう曖昧な言い方を嫌った。


「……思い出せないことがあるような気がしてくるの」


「俺なんかはいつもそうだけどね。いつだって何かを忘れて生きてるよ」

 

 半分茶化すようなつもりで言うと、彼女は少しむっとしたようだった。


「そういうのとはまた違うんだよ」


 佐々木は俺と目も合わせなかった。ただフェンスの向こうの街を見下ろしていた。

 近頃の彼女の雰囲気は、どこかしらこれまでと違っていて、落ち着きを失っていた。

 そういうふうに見えた。たぶん表情が分かりにくくなったのが関係しているんだろう。


「たとえば、夢の話」


「夢?」


「うん。最近変な夢を見るんだ」


「どんな?」


「夢の中で、わたしは断崖絶壁の上に立っているの」


 佐々木はぼんやりとした調子で話し始めた。マフラー越しに聞く声はいつもより遠く聞こえた。


「そしてね、そこから飛ぼうとしているの」


「どうして?」


「分からないけど、わたしはそこから飛ばなきゃいけないの」


 何も言わずに彼女の言葉の続きを待つ。この話の着地点がどこにあるのか、俺には分からなかった。

 けれど考えてみれば、それはいつものことだったかもしれない。


「でもわたしは飛べないでいる。そこにみんなが現れて……」


「みんなって?」


「……みんな。いろんな。みんな。分かるでしょう?」


 分かるような気がした。もちろん気のせいかもしれない。


「そして、みんなは崖の上からとても上手に飛んでいくわけ。

 でもわたしは飛べずにいるの。どうしてかは分からないけど、たぶんわたしは上手く飛べる気がしなかったんだろうな」


 俺は黙って続きを待った。


「そのうちみんなは飛んで行ってしまって、崖の上にはわたし一人だけが残される。 

 そこに猫が現れるわけ。不思議な猫。ぷかぷか空を飛んでいて、人の言葉を話す」


「チェシャ猫みたいな?」


「チェシャ猫みたいな」


「それで?」


「それで、その猫がわたしに言うわけ。“どうして飛ばないんだ?”って」


「きみはなんて答えた?」


 彼女は静かに首を振った。


「飛ぶのは怖いって。そうすると猫はなんて言ったと思う?」


「“きみはうそつきだ”」と俺は答えた。


「どうして分かったの?」

 

 彼女は目を瞠っていた。


「ただの勘だよ」


 俺は答えに窮したあげく、嘘をついた。彼女はそれについて何も訊いてこなかった。

 数秒間を置いた後、猫についての話を続けた。


「とにかく、猫は言うの。“きみは飛ぶことが怖いんじゃなく、飛べないことが怖いんだ”って」


「たいした猫だ」と俺は相槌を打った。


「だからわたしは……」


 そこまで言って、彼女の言葉は止まってしまった。


「ねえ、なんでこんな話をしているんだっけ?」


「さあ? なんでだったかな」





 人語を解する奇妙な猫が俺の夢に現れるようになったのは、一ヵ月ほど前のことだった。

 

 夢の中で俺は断崖絶壁の上に立っている。

 そして一心に何かを待っている。待っているのだ。何を待っているのかは、忘れてしまっているけれど。


 俺はその場に立ち尽くして、崖の向こうの景色を見つめている。

 空には星が浮かんでいた。夜なのだ。崖の下には森があり、浜があり、海があった。

 

 崖の上には風が吹いている。風は俺に、飛べ、と言っている。


 けれど俺は飛ばない。飛べずにいる。そこに猫が現れる。


「どうして飛ばない?」と猫は言う。


「飛ぶのが怖いから」と俺は答える。


 猫は溜め息をついて、言う。


「きみはうそつきだ」


 けれど俺は嘘をついていなかった。ただのひとつさえも。


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