01-06
俺と話す時、彼女は学校の中での出来事について何も言わなかった。
同様に、家での出来事についても。
俺たちが話すのは本のこと、映画のこと、音楽のこと、それから自分自身のこと。それだけだった
不思議なほど、俺と彼女の趣味は異なっていた。
俺がソニック・ユースを聴けば彼女はカーペンターズを聴いていた。
俺がピンク・フロイドを聴けば彼女はボブ・ディランを聴いていた。
俺が真夜中のカーボーイを観れば彼女はタイタニックを観ていた。
俺がパルプ・フィクションを観れば彼女はキャッチ・ミー・イフ・ユー・キャンを観ていた。
べつにレオナルド・ディカプリオのファンだったわけじゃないと思う。
たしか本人は「モーガン・フリーマンが好き」と言っていた。
「それからイーストウッド」とも。まあ分からなくもない。
とにかく俺たちの趣味には大きな隔たりがあった。たぶん。
あるいはどちらも本当はたいして違わないのかもしれないけど。
◇
「一番好きな映画ってなに?」
ある日彼女にそう訊かれたとき、俺はとっさに「チャイナタウン」と答えそうになって慌ててこらえた。
さすがにそう答えるのはまずいような気がした。なんとなく。
「すぐには思いつかない」と俺は答えた。
たぶん「ショーシャンクの空に」とか答えておくのが一番無難だったと思う。
俺の答えに、彼女はつまらなそうな顔をした。
「そっちは?」
「うーん……」
彼女はしばらく考え込んでしまった。それから不意に顔をあげて、照れくさそうに笑った。
「たしかに思いつかないかも」
俺たちの会話には発展性というものがなかった。建設性というものもなかった。
ただそこにあるだけだった。
ただ消費されていくだけの時間。重みの存在しない時間。無為な時間。
悪い日々じゃない。
◇
佐々木春香と俺は似ている。どこが、というのではない。どこかしら似通っている。たぶん。
俺がそう思っているわけじゃない。佐々木春香がそう言っていた。
「たぶんだけどね」と、こちらの反応を窺うように、彼女は言った。
「どこが?」
俺が訊ね返すと、彼女はちょっと戸惑ったような顔をした。
まるで俺が同意すると思っていたみたいに。
「そっちはそう思わない?」
「どうだろう。考えたことがなかった」
「今考えて」
彼女が少し強い調子でそう言うのと同時、強い風が吹いた。
一瞬雨が降り始めたのかと思ったけど、違った。
校舎脇の大きな欅の葉擦れが、雨音のように聞こえただけだった。
八月のことだった。その頃、俺は佐々木と一緒に屋上にいることに慣れ始めていた。
「どうかな。分からない」
いくらか考えたあと、俺はそう答えた。佐々木はいくらか焦ったみたいだった。
彼女の慌てたような表情は、俺の心を浮かれさせた。
言うまでもなくその表情は魅力的だったし、それ以上に俺の言葉が彼女を慌てさせているという事実が心地よかった。
でも別に困らせようとしてそう答えたわけじゃない。俺と彼女が似ているかどうかなんてわからなかった。
むしろ、似ているところなんてないような気がした。
「もっとよく考えてよ。ちゃんと考えて。確認して」
不思議なくらい、佐々木はそのことに執着した。彼女の態度に俺は戸惑った。
必死なくらい、彼女はそのことにこだわった。そしてそれからというもの、彼女はことあるごとにこう言った。
「わたしたちは似てる。とてもよく似てる。そうでしょ?」
縋るみたいにそう言った。彼女がそこまで言うなら、と思って、俺はあえて否定しなかった。
別に俺は損をしないのだ。似ているなんてちっとも思わなかったけど。
◇
俺たちはよく似ている。そう佐々木春香に言われた日、俺は言いようのない孤独を感じていた。
放課後、佐々木と別れて寄り道もせずに家に帰ると、母親は居間のテーブルにもたれて眠っていた。
たぶん彼女は自分の年齢を忘れていたんだろう。
薄くて派手な寝間着は彼女の年齢をいっそう際立たせているような気がした。
テーブルの上には発泡酒の空き缶が何本か転がっていた。それから灰皿と煙草。
母の首筋にはキスマークがついていた。
俺は母の体を持ち上げて寝室に運び、布団の上に寝かせた。
放り出されたままの空き缶を捨て、散らかった居間を簡単に片づけた。
そして自分の部屋に鞄を放り投げてから、テーブルの上に置きっぱなしだった煙草をくわえて火をつけた。
いくら吸っても吸っている感じがしなかった。
◇
「金がないのにどうして煙草をやめないんだ?」
昔、そう母に訊いたことがある。ずっと昔。小学生くらいの頃。
「働くのが嫌になるからだよ」
と母は当然みたいな顔で答えた。
「どういう意味?」
「煙草を買うには金がいるって思えば、しょうがないから働くかって思うでしょう」
「どういう理屈だよ」
「もし煙草を買えなくなったら――」と母は言った。
「――わたしはあんたと無理心中でもするかもね。煙草の神様に感謝しなさい」
俺が鼻で笑うと、母はくすぐったそうに目を細めた。
彼女なりの冗談だ。それは俺にもちゃんと分かった。
◇
佐々木春香の父親は医者をしていた。母親は専業主婦だった。彼女は一人っ子だった。
そのことを知ったとき、どうして彼女は公立中学なんかに通っているんだろうと訝ったものだった。
もちろんそんなのは、俺がどうこう言うようなことじゃないんだけど。
彼女は育ちが良くて、落ち着いていて、容姿にも恵まれていて、成績もよかった。
少しばかり育ちが良すぎるところもあったけれど、それも徐々に削れていった。
一方俺は片親だ。両親は放埓な性生活の末に妊娠し、安易に出産した。
そして当然の帰結のように離婚。俺は母親に引き取られた。
母親は昼に寝て夜に働くようになった。
なるほどな、と俺はそのとき思ったものだった。
たしかに俺たちはよく似ているみたいじゃないか、と。
実際に口に出すことはしなかったけれど、そのとき俺は初めて佐々木に対して苛立ちを覚えた。
◇
だからといって、俺が佐々木を軽蔑したとか、そういうことはもちろんなかった。
俺は別に佐々木という人間に都合のいい幻想を投影していたわけじゃない。
むしろ俺は、佐々木に対して都合の悪い幻想を投影し続けるように努めた。
ひょっとしたら彼女は俺のことを気味わるがっているかもしれない。
ひょっとしたら彼女は陰では他の誰かと俺のことを嘲笑っているかもしれない。
ひょっとしたら彼女には他に仲の良い男子生徒がおり、俺をからかっているだけかもしれない。
そう考えることで俺は、妄想混じりの幸福感に溺れそうな自分にブレーキをかけ続けていた。
思春期少年のガラスのハートを守るためにも、もはや性質化した恋心を守るためにも、それは必要な作業だった。
俺は佐々木春香を好きで居続ける必要がある。
俺にとっての佐々木春香は、母にとっての煙草だった。
もし佐々木春香を好きじゃなくなれば、この世には何の未練もなくなり、俺は晴れやかな気持ちで屋上のフェンスを越えられる。
佐々木春香を好きでよかったのか、悪かったのか、それはちょっとむずかしいところだと思う。
でも彼女と話ができるのは幸せなことだ。だから彼女と話ができる間は、俺は生きていく。ハレルヤ。
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