01-05



 そもそもの話として、俺は昔から佐々木春香のことが好きだった。


 幼稚園の頃から今の今まで。俺は彼女以外の女子を好きになったことがない。

 佐々木は昔からかわいかったし、そのかわいさというのは他の女子とは一線を画していた。 

 そう感じていたのは俺だけかもしれないけど。

 

 あまりに長い間好意を抱き続けていたせいで、俺の中でその気持ちは自然なものになってしまった。

 佐々木春香を好きであるという事実が、俺自身の性質の一部と化してしまったのだ。

 彼女の方からしたら、気味の悪い話だろうけど。


 常態化した好意には、躍動感も喜びもともなわない。

 ただそこにあるだけの気持ち。化石のような感情。

 一途というほど熱くもなく、妄執というほど烈しくもない。でもたしかにそこにある。


 変化もなく、外からは見えない。服の中に隠した消えない痣のように、体に馴染んでいる。

  

 話しかけることができなくても満足だった、というわけでもない。そんな澄んだ気持ちではない。

 諦めて、受け入れていたのだ。





 だから、佐々木春香の泣き顔を屋上で見つけたとき、これはひょっとしたら天祐ではないかと俺は考えた。

 不運続きの俺の人生を見かねた神様が与えてくれた、絶好のチャンスなのではないかと。


 だって、そんなことでも起こらないかぎり、俺と佐々木が言葉を交わせるはずがないんだから。


 だから俺はその日以降、ことあるごとに屋上に向かった。そこに彼女がいてくれるような気がした。

 

 そして結果から言ってしまえば、それは単なる誇大妄想だった。

 佐々木はその日以降ずっと屋上に現れなかった。


 俺は普段の生活の内に、それとなく佐々木の姿を目で追うようになった。

 彼女の様子はすごく自然だった。教室でも廊下でも音楽室でもグラウンドでも。

 どこでも馴染んでいた。


 おかげで俺はしばらくの間、自分自身の正気を疑うはめになった。


 今日こそは佐々木がいるかもしれない。彼女がそこにいるかもしれない。  

 そう思うことで、俺の日々は平坦ではなくなった。放課後のチャイムが鳴るたびに、俺は期待に胸を膨らませた。

 そして数分後には必ず落胆していた。そういう日々が一ヵ月続いた。





 一ヵ月。短くない時間だ。一ヵ月あれば、たくさんのことができる。

 

 一日に一本ずつ映画を観るとして、三十日間続ければ三十本観ることになる。

 本を一日に十ページずつ読み進めても、三十日続ければ三百ページになる。

 

 でも俺はその一ヵ月の間、何もしなかった。映画も観なかったし本も読まなかった。

 世界を呪うこともしなかったし、自分の身を憐れむことすらしなかった。

 

 何かの中毒者のように、ひたすらに屋上に佐々木の姿を探した。 

 振り返ってみれば、いくらなんでもちょっと常軌を逸している。さすがにどうかと思う。我ながら。

 

 気分はあれに似てる。メールのセンター問い合わせ。

 もちろん俺は友達がいないから、したことはなかったけど。

 

 俺は一ヵ月の間、何度も新着メールを問い合わせ続けていたのだ。他のことにほとんど気を払わず。

 そして携帯のディスプレイはそれに応じて、何度も同じ文字を表示し続けた。


「新着メールはありません」


 俺は途中から落胆すらしなくなっていた。屋上から見える景色は徐々に変わっていった。

 桜は雨に打たれて散ってしまい、空は少しずつ青さを取り戻して鮮やかになっていた。 

 風は徐々にぬるくなり、季節は初夏へと移り始めていた。


 そして一ヵ月後の金曜、佐々木春香は何の脈絡もなく屋上に再び現れた。そのときは泣いていなかった。



 


 その日、俺が屋上を訪れたとき、それまでと同じように、佐々木の姿はそこにはなかった。

 彼女は俺の後に屋上にやってきた。まるで追いかけてきたみたいに。


「何してるの?」


 声に驚いて振りかえると、彼女は怪訝そうな顔で立っていた。

 表情とは違い、声は悪戯っぽいような響きを伴っていた。

 

 待望の人がやっと現れたというのに、俺の心を支配したのは喜びではなくむしろ恐怖だった。


 気付かれていたのだ、とそのときの俺は思った。


 彼女と会った日から、俺が頻繁に屋上を訪れはじめたこと。

 そこで彼女の姿を探していたこと。

  

 彼女はそれに気付いていたのだ。


 そう悟った瞬間、俺はどうしようもない絶望を感じた。

 ストーカーまがいの行動をして、しかも本人にそれを気付かれていたんだから。

 というかまあ、ストーカーだったんだけど。


「何って……」


 内面的な俺は敗北を認めていたが、外面的な俺はあくまで自分の立場を取り繕おうとした。


「屋上に何か用事でもあったの?」


 佐々木が何を考えているのか、俺には分からなかった。

 彼女の言葉がすべて、俺の気持ちを見透かした上で放たれているように聞こえた。

 罪悪感からくる錯覚だったのかもしれない。彼女は単に俺に質問しただけなのかもしれない。


 でも俺はそのときまともじゃなかった。ほどよく狂っていた。

 じゃなかったら一月にもわたって屋上に通ったりしない。


「別に、何も……」


「ふうん?」

 

 彼女はにんまりと笑った。それはクラスメイトに対する友好的な態度ととれなくもなかった。

 そのときの俺には、「ネタはあがってるんだぜ、しらばっくれるなよ」と言っているように見えたけれど。


 とにかく俺は、無謀であろうとなんだろうと、この消耗戦を戦い抜こうという決意を持った。


「きみには関係ない」


 俺はきっぱりとそう言った。これ以上話がしたいなら弁護士を通せ、というふうに。

 けれど俺の言葉に、佐々木は戸惑った様子も見せなかった。ただおかしそうに笑っていた。

 俺の決意はその笑みを見て少し鈍った。全部お見通しだよ、と言われている気がした。


「そうかもね」


 あっさりと追及をやめてしまうと、彼女は俺の傍に歩み寄ってきた。

 そして俺の方をみてにっこりと笑った。かわいらしく。

 でもそのときの俺には不気味に映った。

 

 本当に目を曇らせるのは恋ではなく罪悪感なのだ。


 それ以降彼女が押し黙ってしまったので、俺は少し戸惑った。


 俺の脳のキャパシティはまだ自分の名誉を守る言い訳を考えるために使われていた。

 そのせいで、彼女の表情の変化に反応するのが遅れた。


「屋上は好き?」


 彼女はそう訊ねてきた。俺は訊ね返した。


「どうして?」


「べつに。よく来てるみたいだったから」


 やっぱり彼女は、俺が頻繁に屋上を訪れていたことを知っていた。


 その瞬間よぎった感情は、ちょっと普通じゃなかった。

 俺はそのとき、嬉しかったのだ。――自分が彼女の視界に入っていたことを知って。


「……ああ、うん」


 自分自身の感情の揺れに戸惑いながらも、外面的な俺は冷静だった。

 ここで否定すれば、自分が屋上にいた理由を、また掘り返されるかもしれない。そう思って肯定した。


「きみは?」

 

 と俺は訊ね返した。とにかく話を逸らしたかった。

 その反問が、佐々木にはよっぽど想定外だったらしい。

 

 一瞬、彼女の顔から表情という表情が綺麗に消えた。

 数秒の沈黙の後、佐々木は困ったように笑いながら、


「どうだろう?」


 と嘯いた。俺の心臓はその頃ようやく事態を把握して、鼓動を激しくした。

 佐々木は俺の顔を見ずに言葉を続けた。


「少し話をしない?」


 そのあとに確かに交わしたはずの会話を、今の俺はどうしても思い出すことができない。

 ただ、ひとつの事実として、俺と佐々木はそのときを境に、屋上で顔を合わせて話をするようになったのだ。


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