第五十二集 嵐の前
冀城は周囲が開けた平地に建てられており、また大河である
しかし世が乱世となれば、それは軍事的に非常に守りにくい事も意味しており、先年の包囲戦で苦しんだ事も記憶に新しい。
馬超が攻めてくるのが漢中からと知っている現在の状況であるならば、侵攻してくる経路もある程度は決まっている。それならばわざわざ本拠地である冀城で迎え撃つ必要などない。もっと有利な場所で戦うのが道理である。
漢中から涼州に至る山岳図を卓上に開いた旧涼州の者たちは、馬超の通るであろう経路、更には
そんな中で、
谷間とは言っても幅は数百歩はある為、大軍勢の通り道としては非常に有効で、同時に左右は切り立った山岳地帯だ。ここに壁のような城壁を築いてしまおうというわけである。
後の歴史においても、戦略的要地として様々な軍勢が幾度となくぶつかる事となるのだが、そんな祁山に初めて軍事要塞が作られたのが、この時であった。
馬超が再侵攻してくるまで、さほど時間が無い。船を使って渭水流域の木材を集め、それまで何もなかった谷間に急造の砦を建設していく。
木材を切り出して船で運び込むという作業において、渭水賊であった
彼らがいなければ祁山砦の建築は間に合っていなかったであろう。
濁った声を張り上げて、部下へ指示を飛ばしている莫浪風の
「やぁ」
「何だコラ、クソ道士。今はお前ェに構ってる暇はねぇ!」
ぶっきらぼうな態度の虎髭の大男を前に、道家の優男はいつもの笑顔のまま懐に手を入れた。取り出したのは
「……何の真似だ?」
「いつぞや君に借りたお金だよ。まさか忘れてるわけもないでしょ? こっちも事情があってさ、流石に
「まるでもうすぐ死ぬみてぇな口ぶりじゃねぇか」
冗談めかして皮肉を言った莫浪風だったが、当の緑風子はそれに返すでもなく、珍しく笑顔を曇らせた。
「そんな気はないけど、そうなるかも知れなくてね……」
表情を変えぬまま、互いに見つめ合う両者。そのまましばらくの沈黙が続いた後に、莫浪風がため息を吐いた。
「まぁ、いいだろ。これでチャラだ。でも死ぬんじゃねぇぞ。お前の事は嫌いだが、嬢ちゃんや坊主を悲しませるなよ」
そんな莫浪風の言葉に、緑風子は笑顔を見せて頷くのであった。
一方その頃の漢中では、馬超軍もまた再出兵に向けての準備を進めていた。そんな中で馬超は、息子の
馬秋の母、すなわち馬超の妻である
当然ながら馬秋はそれを、自分と
馬超は、息子が趙家に騙されていると主張したが、当の馬秋はそれを受け入れなかった。確かに初めは敵の子として疑っていたが、時間をかけて友情を結んだ趙月が最初から騙して近づいていたとはどうしても思えなかった。先日に趙月の姉である趙英とも会っているが、やはりそこでも策略は感じられなかった。
ましてやあの日、人の気配を感じて部屋の奥に隠れた彼の存在を趙英は知らずに趙月と会話を始めた。その内容は純粋に趙月の身を案じる物であったのだ。
もしも趙月を含め、趙家の者が自分を陥れようとしているならば、何らかの失言があって然るべきであるが、それが一切なかったのだ。
だが馬秋はその事を父には言えなかった。馬超からすれば、侵入した敵を前にして黙って行かせた形となるのだから。その意味では、確かに馬秋は父に背いていた。
話は平行線のまま終わり、その後に馬超は当の趙月を呼び出した。同じように詰問する馬超であったが、趙月の答えはやはり同じである。
「両親とは関係ありません。自分と
そんな趙月に対して、馬超が出した要求はひとつ。今度の出兵に参戦する事である。
「お前には役に立ってもらう」
馬超のその言葉に、趙月は歯噛みしつつも黙って従った。
恐らく前線には彼の両親や姉が参陣しているだろう。自ら家族と戦う事によって潔白を証明しろという事だと、趙月は受け取った。
趙月が参陣するという話を聞いて、それならば自分も行くと申し出た馬秋は、逆に参陣を許されなかった。
馬超の立場としては内通をほぼ確信していた以上、真っ先に標的となる息子を戦場に出すわけにはいかなかったのである。息子が勝手に来ないよう、部下に命じて半ば
息子を案じたこの行動が、後に親子の溝を決定的な物としてしまうとは、この時の馬超は思ってもみなかったであろう。
さて、決戦を控えた冀城の趙家では、
彼を見舞った
しかし当の呼狐澹は、酷く疲れてるだけみたいなもんだから大丈夫と、弱々しいながらも笑顔を見せた。むしろ冀城の皆が総出で祁山砦の建築に勤しんでいる中、最後の戦いを手伝う事が出来ない事を申し訳なさそうにしていた。
「気にするな。お前はお前の戦いに決着を着けたんだ。だから今はゆっくり寝ていろ」
そう言って立ち上がった趙英を、呼狐澹は呼び止める。未だに力が入らず震える手を上げ、拳を突き出して笑みを浮かべた。
余計な言葉はいらなかった。「この戦いが終わって二人とも生き延びたなら……」という、いつぞやの約束の通り、必ず勝って、必ず生き残れという意図を受け取った趙英は、微笑んで同じように拳を突き出して答えたのだった。
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