第五十集 少年たちの決意

 枹罕ふかん何冲天かちゅうてんとの決着を着けた後、昼夜を問わず馬を飛ばした趙英ちょうえい漢中かんちゅうに到着した時、当然ながら未だ馬超ばちょう軍は到着していなかった。


 切り立った秦嶺しんれい山脈に南北を閉ざされた盆地である漢中。高地であるが水源も豊富で土は肥えており、荒野の多いりょう州とは比べるまでもなく豊かな土地であった。


 この土地の者はその多くが五斗米道ごとべいどうという道教宗派の信者であった。未だ後漢王朝が乱れる前、張陵ちょうりょうという道士が人助けをして回った事が始まりで、報酬代わりに五斗(後漢代では約十キロ)の米を貰っていた事からその名が付けられた。張陵の息子・張衡ちょうこうを経て、現在は孫の代に当たる張魯ちょうろが三代目の教祖である。


 当時の道教教団というのは、中央政権からは民を惑わす邪教として扱われており、別流派にあたる太平道たいへいどう黄巾こうきんの乱を起こす以前も同様であった。

 張魯の父である張衡、そして母である盧少容ろしょうようは、その頃にしょくの地を広く治めていた劉焉りゅうえんに取り入って政治的な後ろ盾を得る事により、そうした弾圧を避けていたわけである。


 そんな両親の後を継いだ張魯は、劉焉が死去しえき州牧の座がその息子・劉璋りゅうしょうに継がれた時期を見計らったように、ちょうど漢中で起こった反乱を鎮圧した。その後はそのまま漢中に居座って独立し、民生に力を注ぐ事によって朝廷からも統治を認めさせた。更に住民をそのまま信者として取り込む事にも成功し、現在の勢力基盤を得たという経緯だ。

 この土地の者は、安定した統治によって生活を保障してくれる張魯を張師君ちょうしくんと呼び讃えており、民からも慕われる盤石な体勢を築いていたのである。


 そんな漢中の中心とも言える場所が南鄭なんていだった。張魯の居城であり、趙英の実弟・趙月ちょうげつがいる城市まちである。


 現在は周囲で戦乱が起こっていない事もあり、日中の間は城門も解放され、人の出入りも多い。鎧で武装しているわけでもない趙英が一人だけ、そうした民の流れに紛れて城内に入る事は容易であった。

 そんな南鄭の城内は、表通りや市場などは人で賑わい、子供たちが走り回って遊んでいる。民は皆笑顔で活気に溢れていた。

 涼州では久しく見る事の出来なかった物で、趙英は複雑な心境であった。こんな活気が涼州に戻って来るのはいつになるのだろうか。


 趙英は民にそれとなく訊いて回り、趙月の暮らしている邸宅を特定した。あくまでも馬超の長男である馬秋ばしゅうの供回りとしての同行であった為、囚われているわけではない。

 客人として赴く事も出来たが、共に逃げ出すとなれば人目の少ない夜の方が良いと思った趙英は、近くの酒楼さかばで夜を待った。




 さて夜も更け、趙英は難なく邸宅へと忍び込んだ。

 人目を避けて足音を立てる事なく、弟が暮らしている部屋へと入る。久しぶりに見た弟は、成長期という事もあり、最後に会った時より背丈も伸びていた。


「姉上?」


 どこか驚いた様子の趙月であったが、姉の姿を見た時点で当初から計画していた涼州での一斉蜂起が起こったのだと即座に理解した。


「もうすぐ馬超軍が漢中に逃れてくる。そうなれば、お前の身も危険だ。すぐに行こう」


 その言葉に趙月はどこか暗い顔で黙り込んだ。何事かと弟の言葉を黙って待った趙英に対し、意を決したように趙月は言う。


「私は戻りません。この地で仕官すると決めたんです。危険なのは承知ですが、話せばきっと分かってくれます」


 何を言っているんだと頭が真っ白になる趙英。気が短い馬超がすぐに人を殺す姿を何度か見ていた以上、反乱の首謀者として確実に恨まれているであろう趙昂ちょうこう王異おういの嫡子である趙月は、殺される可能性は高かった。


「馬超が、話して分かる相手だと思っているのか!?」


 思わず声を荒げた趙英。その時、部屋の奥にあった家具の後ろから、もう一人の少年が出てきた。馬超の嫡子である馬秋である。

 その顔を見てまずいと思った趙英であったが、当の馬秋は落ち着いた様子で話し始めた。


「父上の説得は、私も致します」


 突然のその発言に、やはり趙英は困惑した。

 腰を据えて話してみると、趙月と馬秋の二人は、親の因縁など関係なく心から良き友人となっており、子供同士の簡易的な物であったが義兄弟の契りすら結んでいたのである。


 そんな二人は、民生に力を注いでいる張魯から老子の道徳真経を学んだ事により、揃って張魯に仕えようと約束したという話であった。

 これは趙昂や王異だけでなく、彼らを漢中へと送り出した馬超すらも予期していなかった事だろう。


 張魯が宗教団体の教祖という立場である以上、惑わされた、洗脳されたという人もいるかも知れない。

 だが二人の少年の真っすぐな瞳は強い意志を秘めており、己自身の意思で決めた生き方であると断言しているようだった。


 もしも母である王異がこの場に居たなら、趙月の頬を叩いて叱りつけたかも知れない。だが趙英はそのような事をしたくなかった。

 それどころか「自分の生き方は自分で決める」と豪語して、親の決めた生き方に逆らってきたのは、むしろ自分の方が先達である。


 両親たち涼州の旧臣は事実上、親曹操の勢力である。張魯はそんな曹操と敵対関係にあり、賊軍となった馬超軍とも同盟しているのだ。そうなればもう二度と、生きて両親と会う事も出来なくなるかも知れない。その覚悟はあるかと趙英が問うと、趙月は力強く頷いた。

 趙英は馬秋へと振り返った。この少年も、父があの馬超なのである。恐らくは相当な苦労をするであろう。


士朧しろうを頼む」


 趙英がそう言うと、馬秋は丁寧に包拳して返す。


「士朧とは義兄弟の誓いを立てました。この命に代えても」


 その言葉に趙英は微笑んだ。

 これが弟の選んだ生き方なのだと納得したが、それを報告したら両親は、特に母はどんな反応をするだろうか。強いて気が重いのはその点である。

 趙月もまた姉に向かって包拳をする。


「姉上もお元気で。出来れば戦場では会いたくないものです」


 そんな弟に趙英も包拳を返すと、笑顔を見せて別れを告げた。或いは今生の別れとなるかも知れなかったが、互いに己の意思で決めた道を進むというだけの話である。寂しい事ではあるが、悲しむべき事ではない。それが趙英の得た答えであった。


 どこか晴れやかな気持ちで弟の部屋を去り、軽功けいこうで飛び上がって邸宅の土壁を飛び越えた趙英。

 そんな姿を、同じ邸宅の内部から見つめていた男がいた。彼は侵入した女侠を見つけて騒ぎ立てるでもなく、少年たちとの話に聞き耳を立てていたのである。

 夜風に真っ白な髪を揺らされながら、ただ不気味に口元を緩めて。






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