第四十九集 怨恨の鎖

 馬超ばちょうが軍を率いて城へと辿り着いた時には、冀城の城門は固く閉ざされ、更には周囲に馬超軍と同数以上の軍勢が控えて臨戦態勢を整えていた。

 兵力はほぼ拮抗しており、包囲する事は出来ない。そうなれば城門前で野戦をする事になるわけだが、足場を失って孤立無援となっている馬超軍には援軍も補給もない。時間をかければそれだけ自軍が不利となり、もし仮に冀城を取り返したとしても、そのまま包囲されて孤立してしまう。

 先年の冀城包囲戦で韋康いこうらを苦しめた馬超であるが、そうなれば今度は自身がその立場になってしまうわけだ。


 もはや撤退しか道は残されていなかったが、まるで彼らを逃がすかのように南方への道が空いている。同盟者・張魯ちょうろがいる漢中かんちゅうへ向かう道である。

 敵も抗戦の構えを取っているだけで、攻撃はしてきていなかった。


 さすがの馬超も敵の意図が見えて癪に障るが、体勢を立て直し補給線を確保する事の出来る唯一の道である。再起を図るには、もはやそれしか道は残されていない。ここで交戦をするのは滅亡への道であると、馬超当人も将兵たちも皆が理解していた。


 そんな馬超が、せめて一言でも再戦の宣言をしてやろうと城門に向き直った時、彼は思わず凍り付いた。

 その目に映った物は、まるで見せしめのように城門から吊るされている複数の死体。全身を切り刻まれ真っ赤に染まったその死体からは血が滴り、真下の地面に血だまりを作っていた。一人の女性と、他は幼子である。

 それを見た馬超は、初め必死に理解を拒絶した。だがそれ以外はあり得なかった。彼の妻・浥雉ゆうちと、彼の子供たちである。


 絶望の慟哭を漏らして崩れ落ちる馬超の姿を見つめるのは王異おうい。その服は真っ赤に染まり、その顔にすら返り血が飛び散ったまま、それを拭う事もなく城門の上から見下ろしていた。地面に伏して嘆き悲しむ馬超の姿を見て、その口元を歪めている。


 そんな王異の視線に馬超も気づく。妻と親交を結んで友人として付き合いを持っていた女。それは涼州の役人である趙昂ちょうこうの妻。全てはこの為だけに近づいたのだと、馬超もようやく理解した。

 枹罕ふかんで突き殺した姜冏きょうけいが語った「我ら涼州の者が、本当に貴様に忠誠を誓うとでも思っていたのか」という言葉が馬超の脳内で響き渡る。


 父・馬騰ばとうや、弟である馬休ばきゅう馬鉄ばてつとは、もともと関係があまり良くなかった。都にいた親類縁者とは顔を合わせた事もなかった。

 だから彼らが処刑されたと聞いた時も、それが馬超自身の反逆の罪に連座した物とは言え、そこまで感情が揺れる事は無かった。馬超自身も不思議なほどに。

 だが妻子は違った。彼が父からの愛情を受けられなかったと感じて育った事の反動もあって、家族への慈愛は人一倍強かったのである。それゆえに絶望は大きかった。

 仲睦まじく暮らした妻と、父を慕う子供たちの笑顔が、目の前にある惨殺死体に重なり、彼の心を乱した。


 この一年の間、浥雉と交流してきた王異は、それをよく分かっていた。今この瞬間の馬超の絶望も手に取るようにわかる。だからこそ妻子の死体を切り刻んだのだ。範囲内で、可能な限り残酷に。


 お前のその姿を、ずっと見たかった――。


 悲しみの涙を流して慟哭した馬超を見つめ、返り血に塗れたまま勝ち誇った笑みを浮かべている王異。そんな姿を見せつけられ、次第に悲しみから怒りへと感情が移り変わる馬超。

 だがここで交戦しては確実に滅びると、彼の最後の理性が働いていた。


 王異と馬超は、その両者ともに何も語らなかった。ただ互いの視線だけで充分であった。必ず戻って来ると、馬超の瞳は語っていた。

 そして静かに立ち上がった馬超は、部下に漢中へ向けての退却を命じた。




 失意のままに漢中へと向かう馬超軍。その行く先にれき城が見えてくる。秦嶺しんれい山脈へと入っていく山道は目と鼻の先にある城市まちで、漢中へと向かうこの先にほとんど支城は無い。むしろ武都氐ぶとていの勢力下にあり馬超にとっては安全地帯だ。

 そうした事情も加味した上で涼州への足掛かりを残す意味として、確保できるならばこの城だけでも陥落させておいて損は無かった。


 そう思い至った馬超は、軍を展開し歴城を攻める体勢を見せた。


 この城を根拠としている撫夷ぶい将軍・姜敍きょうじょにとっては、馬超がその判断をする事こそを恐れていたわけである。それを見越して歴城では城門が閉ざされ防備が固められていたわけだが、守備兵力は馬超軍の半数以下であり、守り切れるかどうかは未知数であった。


 そんな歴城の城門前に、ひとりの老婆が立っていた。杖を突いている腰の曲がった老婆である。鎧を着ているわけでも武器を持っているでもなく、周囲には護衛もいない。


 それは正に撫夷将軍・姜敍と、枹罕で殺害された姜冏の母に当たる人物だ。いつの間にやら城門の外に出ていた将軍の母君の姿に守備兵たちは困惑するが、当の彼女は落ち着いた様子である。

 勿論ながら相手の素性を知らぬまま、何事かと思って見つめていた馬超に向かって、その老婆は歩み寄って話しかけてきた。


馬孟起ばもうきよ。全くの自業自得よな。天に弓を引いた大罪。暴威と恐怖によって民を押さえつけ、そなたを助けてきた韓遂かんすいからの恩も仇で返した。それらの罪によってそなたは家族を失ったのだ。そしてそなたの祖先である漢の忠臣、伏波ふくは将軍・馬文淵ばぶんえんの血脈をも滅ぼしてしまったのよ!」


 馬超の祖父・馬平ばへいは、元々は後漢の初代皇帝・劉秀りゅうしゅう光武帝こうぶてい)に仕えた馬援ばえんの末裔で、かつては皇后すらも輩出した名門の家柄である。都にて処刑された馬超の親類縁者二百人とは、正にその馬援の血を引く者たちであった。

 馬平とその息子・馬騰が、続けてきょう族の娘を娶った事で、馬超を羌族との混血児として扱う者が多かった中、名門である馬援将軍の子孫として扱われるのは、本来ならば誇らしい事である。

 だがそれは馬超にとって、己の行いでその血筋を絶やした罪業に正面から向き合う事でもあった。


「何たる不忠! 何たる不義! 何たる不孝! そなたほどの罪人は天下広しと言えど、そう多くは無かろうよ。

 董卓とうたくか? 李傕りかくか? 呂布りょふか? それとも袁術えんじゅつか? いずれにしてもそなたは後世に、奴らと並んで語られる悪人にしかなりえまい。草葉の影で、父祖たちは嘆き悲しむであろうなぁ!」


 もはや限界であった。冀城で妻子を失った事で千々に乱れた馬超の心は、それ以上の言葉を受け入れる余裕などなかった。

 彼は槍を手に取ると、絶叫を上げて老婆に襲い掛かった。周囲の将兵が止める間もなく、ただ怒りに任せて老婆に槍を突き下ろす。何度も何度も、爆発した感情のままに。


 そんな姿に、城門の上の兵士たちは戦慄した。もしも門が破られれば、あのようなが城内の者を皆殺しにしてしまうだろう。老若男女の区別なく。


 だがそれこそが、老婆の狙いでもあった。歴城には彼女の孫もいる。家族を守る為、そして故郷を守る為、ひいては漢朝への忠義の為に、老い先短い自身の命を犠牲とし、背水の陣を敷いたのである。


 決死の覚悟が決まった城門の守備兵たちが馬超軍に向けて弓を構える中、既に血まみれの肉塊と化した老婆の遺体の前で、息を荒げている馬超に、後方に待機していた龐徳ほうとくが歩み寄ると、ここで攻めるのは愚策と進言した。

 こうして馬超軍は歴城攻略を諦め、再び漢中へと退却を開始したのである。




 攻城を諦めた馬超軍が立ち去った後、歴城の城門が開かれ、ひとりの少年が駆け出した。周囲の兵からの「見ない方がいい」という制止を振り切って、もはや顔も判別できぬほどに潰された老婆の亡骸なきがらへと駆け寄った。

 それは彼女の孫である姜維きょういだった。枹罕に出兵していた父・姜冏が馬超によって殺されたという報告が届いて間もなく、今度の事が起こったのである。


 涙を流しながら膝から崩れ落ちた少年の目は、山の向こうへと立ち去っていく軍を見つめていた。その先頭にいるであろう、父の仇、祖母の仇である馬超へと……。






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