第四十八集 解放

 枹罕ふかん城を見て回り、そこに宿敵・鍾離灼しょうりしゃくの姿を見つけられなかった緑風子りょくふうしは、肩を落としながら城から離れた。

 城を見下ろす丘の上、周囲に大岩が転がる中に、彼の愛馬である芦毛が待っていた。その横には月毛の馬もいる。

 岩場にもたれかかっていた呼狐澹ここたんは、枹罕城とその周囲の馬超ばちょう軍をぼんやりと眺めながら、戻って来る緑風子に視線を移す。


 何冲天かちゅうてんとの戦いを終えてすぐ緑風子と合流した趙英ちょうえいと呼狐澹であったが、趙英の方は弟を救うと言い、夜明け前には漢中へ向けて一人で出かけてしまったわけだ。

 一方の呼狐澹は、九天神功きゅうてんしんこうの効力が切れ、予想通りの反動で動けなくなっていたのである。


 浮かない顔で戻ってきた道士に対し、同じく仇敵を追い続けていた南匈奴みなみきょうどの少年としても察した部分があるのか、あえて何も訊かなかった。


 二人は黙ったまま何気なく枹罕城の方を振り返る。

 城を包囲していた馬超軍が軍営を引き払って、ゆっくりと撤退していく。城を始めとした漢陽かんよう郡での蜂起の知らせが届いたのであろう。


「事態が収まるまでは、冀城に戻るのもやめておいた方がよさそうだね」


 そう呟いた緑風子に、岩にもたれたままの呼狐澹も頷いた。どちらにしても数日はまともに動けない以上、行った所で邪魔になるだけである。

 趙昂ちょうこう楊阜ようふらの奪還作戦は、その周到な準備を考えれば、ほとんど成功するであろう。強いて心配があるとすれば、漢中へ向かった趙英の事。単身で敵地に乗り込んで実弟・趙月ちょうげつを救い出すという無茶な話である。


慧玉けいぎょくの腕なら、きっと大丈夫だよ」


 そう呟いて笑顔を見せた呼狐澹であるが、緑風子の懸念はそこではなかった。とは言え杞憂という事もある為、あえて何も言わずにいたのであった。




 一方その頃、金城きんじょう郡でも大きな動きがあった。西平せいへい閻行えんこうに対して討伐軍を出した物の緒戦に敗れた韓遂かんすいは、すっかりと意気消沈しており、閻行に対して停戦の交渉に臨もうとしていた。

 閻行は恐らく共に曹操そうそうへの帰順を申し出るのならば停戦を受け入れるであろうと踏んでの事であり、閻行の側もその条件を飲ませる為に防戦に回っていたとも言える。

 共に曹操に降れば、少なくとも後漢朝廷に対する反逆者ではなくなり、互いに争う理由もなくなるわけである。


 その動きに最も焦りを見せたのは、当然の事ながら麹演きくえんである。彼は閻行を失脚させる為に、韓遂の娘であり閻行の妻である阿琳ありんを手にかけた張本人なのだ。当初の予定通り韓遂が閻行を攻め滅ぼしてしまえば、全ての真相が闇に消えると思っていたのであるが、停戦交渉で直接顔を合わされては全てが明るみに出てしまう可能性があった。

 何よりも、この戦いが起こる少し前に彼に宛てた文が届いていた事も大きかった。その内容は「韓夫人の死の真相は全て知っている」という物。その差出人は不明。


 その文と同じ時期に韓遂に宛てられた文もあるとの事で、麹演はそれとなく韓遂に聞いていたのだが、「何でもない」「何も書いてなかった」として、その内容を頑なに教えようとしなかった。


 これら二通の書状は緑風子が西平から離れる際に金城へ届けた物であるのだが、韓遂の方には本当に何も書いていない書状を送っていたのだ。だが麹演は内容をはぐらかされたと思い焦燥感を募らせた。

 こうなった以上は何としてでも閻行と韓遂を会わせるわけにはいかないと思い、必死に西平への出兵を求めたというわけだ。


 だがその出兵も失敗に終わり、ここに来て韓遂が西平に赴いて閻行と会うと言い出したのである。

 既に齢七十を超えた韓遂。それはただ先立たれた末娘の墓を参りたいというだけの老人の感傷であったのだが、麹演はもはやそう思えなくなっていた。

 自身の生き残りと西平統治の念願。麹演はその両方を叶える為に、計画を大きく変更する事にした。


 すなわち韓遂の暗殺である。


 彼と同じような経緯で韓遂に屈していた金城の豪族である蒋石しょうせきと手を結ぶと、金城にある韓遂の私邸を夜襲し、難なくその首を取った。

 そして麹演は配下の者に命じて、韓遂の首を曹操そうそうへと送り恭順の意を示した。元より曹操と結ぶつもりであった閻行を出し抜き、逆賊討伐の功績を自分の物にしようと画策したわけである。


 こうして金城を占拠した麹演と西平の閻行は、共に曹操の軍門に降った者同士、睨み合いながらも手が出せなくなった。

 結果的にこれで、涼州から韓遂を排除し、金城と西平を親曹操の勢力としてまとめ上げる事に成功したと言える。


 当初の目的である鍾離灼を取り逃がしてしまった緑風子であったが、その過程で出した、たった二通の書状という置き土産を以って、この状況を作り上げたのだ。


 金城の韓遂はここに倒れ、枹罕の宋建そうけんももはや再起できぬであろう。残るは漢陽から馬超を追い落とすのみである。




 そんな馬超が居城としていた冀城では、漢陽郡の各支城から続々と軍が馳せ参じており、城内で決起した旧涼州派によって、既に留守居の部隊はほぼ制圧されていた。いつぞやの先走った反乱兵の時とは全く様相が違ったと言っていい。

 そんな中で唯一、と思っていたのは、政庁内で監禁されている馬超の妻子だけである。


 再び命の危機が迫った恐怖から泣き止む事をしない幼い子供たちを、浥雉ゆうちはやはり同じように慰めていた。必ず父上が助けに来てくれると。


 そこへ姿を現したのは王異おういであった。その姿を見て浥雉は安堵の笑みを浮かべた。先の反乱の際に助け出してくれた趙英は、王異の娘である。何よりも普段から交流を行い見知った顔であったからだ。

 そんな王異が拘束されずに自由に動き回れているという事は、自分たちを解放しに来てくれたに違いないと判断しても当然であった。

 当の王異も笑顔を見せて優しく語り掛ける。


「あなたを救いに来ましたよ」

「良かった、薊華けいか!」


 親し気にあざなで呼びかけながら王異に歩み寄った浥雉は、信頼の証とばかりに抱き着いた。だがふとした違和感を覚える。自身の腹部に冷たい物が当たっている感触。

 何気なく下を向けば、王異の右手には匕首あいくちが握られ、その刃が浥雉の腹部に深々と刺さっていた。それを確認した途端、焼けつくような熱さに代わり、傷口から真っ赤な血が流れ始めた。


 あまりの衝撃で何も言葉が出てこない浥雉が、何故こんな事をとばかりに王異の顔に向き直ると、王異は未だに笑みを浮かべたままであった。


 二人は以前、こんな話をした事がある。

 敵に捕らわれ辱められるくらいなら、死を選んだ方がマシであると。互いに同感だと頷きあった物だが、浥雉にとってそれは夫への一途さを表す方便とも言えた。しかし王異にとっては言葉通りであったのだ。

 その意味では、浥雉をという王異の言葉には、何の嘘も無かった。


 流れゆく血が白い衣を赤く染めていき、床に崩れ落ちる浥雉。目の前で倒れ伏した母親を目にした幼子たちが泣き叫んだ。

 薄れゆく意識の中で、王異に向かって懇願するように手を伸ばした浥雉は、その瞳から涙を流しながら絞り出すように最期の言葉を発する。


「お願い……、子供たちは……」


 その言葉を聞いた王異は、真っ赤に染まった匕首を握ったまま、なおも黙って微笑み続けていた。






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