第四十七集 枹罕の落日
大将軍・
だがそれが事実と分かると、次第に
それは兵士だけに留まらず、宮殿内でも同様であった。百官たちは勿論、老王・
だがそれに真っ向から異を唱えたのは、王太子である
「大将軍を殺害したのは馬超の手の者で間違いないはず。それはすぐにでも城攻めが始まるという事に相違ありません! 悠長に待っていたら、今日の日没を待つ間もなく枹罕は終わりです! ここは打って出る以外にありません!」
それは明らかに無謀な賭けである。相手は西涼の錦を自称する猛将・馬超。その腕は昨日、城内にいる多くの者がその目に焼き付けた。そして彼が率いる歴戦の軍。
士気の下がっている素人集団や、初陣である十代の少年では一矢報いる事すらままならないであろう。
だが座して死を待つくらいなら、わずかな勝機に賭け、それが成らぬならば潔く散るのみという、英雄に憧れた若者特有の無鉄砲さがそこにあった。
当然ながら慌てたのは宋建である。子も孫も既に亡く、その忘れ形見で、ただ一人の曾孫であり、自身の後継者でもある宋延を死なせるわけにはいかなかった。
「誰ぞ、王太子を止めよ!!」
堂々たる足取りで出馬しようとする少年の周囲に群がり、拱手をしながら口々に「殿下、お考え直しください」と諫める百官であったが、既に無謀な決意を固めた彼の足を止める事は出来なかった。それどころか「寄らば斬る」とばかりに腰の剣を抜き放って道を開けさせる始末である。
昨日に単騎駆けをしてきた黒衣の男が死んだという報告は、実は馬超の耳には届いていなかった。趙英らに報告する義務も義理もない以上、それは当然の事だ。
だが馬超にとっては、いずれにしても抑止力とはなっていなかった。もし再び現れたら今度こそ仕留めてやると、逆に闘志を燃やしていたほどである。
馬超にしてみれば、寝耳に水と言えた。
冀城を任せたのは、先の反乱鎮圧で妻子を救ってくれた事は勿論、ともに天下を狙おうと様々な献策をしてくれていた者たちだったからである。
更に漢陽郡の支城は、上邽で決起した際に兵も民も自分に同調してくれたはずであった。
そんな混乱する馬超を眺め、声を上げて笑う者がいた。
馬超の副将として参陣していた
「全く愚かな男よ。我ら涼州の者が、本当に貴様に忠誠を誓うとでも思っていたのか。全ては今日のこの日の為。貴様を地獄に突き落とす為に耐え忍んだのよ。それでもほんの一年やそこらだ。二十年の屈辱を耐えた
高笑いと共に罵声を浴びせてきた姜冏に、馬超は怒り狂った。
それまで心から信頼していたからこそ、その全てが紛い物であった事への絶望と怒りは激しかった。そしてその感情を、言葉にならぬ絶叫と共に目の前にいる姜冏に槍の切っ先としてぶつけたのである。
目にも止まらぬ槍の一撃は、姜冏の心臓を正確に穿つ。血を吐きながらも決して不敵な笑みを崩さず、馬超に嘲笑の目を向けたまま彼は絶命した。
漢陽郡で決起が起こる際に、馬超の副官として隣にいる以上、もはや自分の命は無いと最初から悟っていた姜冏は、ここにきて全身全霊で馬超を罵ったのである。それは多くの涼州人を代弁する物だった。
枹罕城門が突如開かれて数十騎の騎兵が出てきたのは、まさにそんな時である。その騎兵集団は一直線に馬超の本陣へと向かっていた。
枹罕の王太子・宋延とその護衛たちである。馬超軍の兵士たちは咄嗟にここで道を空けてしまった。冀城蜂起の報告が届き、目の前で馬超が副官を刺し殺した事による混乱と、昨日の何冲天に恐怖を刻みつけられた事の相乗効果であった。
馬超の本陣へ道が開いた事を見て、宋延は行けると思い槍を構えた。
「馬超、覚悟!!」
前日の襲撃が刻み込まれていたのは馬超もやはり同様であった。今度もまた強敵が来たものと当然思った。特に今まさに怒りに任せて姜冏を突き殺した所で、血が滾って仕方がないといった時である。
勝負は一瞬だった。下手をすれば宋延は己の死を認識する事すらも出来なかったであろう。馬超は少年の繰り出した未熟な突きを最小限の動きで避わしながら、その喉元を一突き。それで終わりであった。若き王太子はそのまま落馬し、あっけなく絶命した。
「殿下!!」
同道した護衛たちは地面に血だまりを広げている少年の周りに集まると、周囲の敵兵に向けて槍や戟を構えて牽制する。
だが自身が突き殺したのが、あまりにも未熟な少年であった事に興が削がれてしまった馬超は周囲の兵に静かに告げた。
「捨ておけ。それよりも撤退準備だ。冀城に向かうぞ」
そうして次々と軍営を畳んで兵を引いていく馬超軍。
もしも宋延の突撃が半刻(一時間)でも遅れていれば、馬超軍は既に撤退を開始し、その命を失う事は無かったであろう。またもし半刻でも早ければ、冷静で余裕のある馬超に初陣の少年だとして軽くあしらわれ、やはり命までは取られなかったかもしれない。
運命とは時に残酷な物だ。
馬超軍撤退により攻撃が止んだ安堵感と、王太子・宋延の戦死の衝撃で枹罕城内は何とも言えぬ空気に包まれていた。
もはや侵入者を警戒する余裕も無いほどに混乱する城内を、身を隠す事もなく闊歩する
目ぼしい所を見て回り、兵士や文官たちに居場所を問い詰めても、
いつもこうだった。相手の仕掛けてくる策略を、それを上回る策で覆しても、こうして逃げられてしまう。いつもの笑みも消え、歯噛みして悔しがる道家の優男。
そんな緑風子の目に、宮殿の入り口で膝から崩れ落ちている老人の姿が映った。老王・宋建である。周囲の文官に支えられながら、もはや正気すらも失わんばかりに慟哭している。
齢八十を過ぎた老人にとって、自身の唯一の肉親であり後継者であった王太子を失った事は、他の何を以ってしても埋める事の出来ない物だ。策謀を巡らし涼州を手に入れ王となっても、それを引き継ぐ子孫がいてこそである。
宋建はもはや再起不能であると言えた。三十年もの間この涼州を、ひいては天下すらも乱した反逆の老王の最後としては、あまりにもあっけない物である。それもまた歴史の皮肉である。
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