第三十九集 九天神功
何冲天が呼狐澹の家族を族滅したのは、呼狐澹の父・
ここまで来た以上、決着を着ける事でしか前に進む事は出来ないと思い至った呼狐澹は、それまでの憎悪に囚われて追い続けていた時とは逆に、どこか吹っ切れた様子で落ち着いていた。
とは言え現状では二人がかりでも勝つ事は難しいと、先の戦いで大いに思い知らされた事で、大幅な打開策を探す事にした趙英は、趙家の書庫を漁っていた。
蔵書家でもある母・
当然ながらその中には武術書の類もある。王異自身は武術に全く興味が無い物の、木簡を見るや内容に関わらず欲しくなってしまう悪癖があった。
そのお陰もあって、趙英はそこに打開策が隠れているのではないかと思い至り、こうして書庫にある木簡を次々と漁っているわけだ。
数日間の捜索の末、趙英は一巻の奥義書に辿り着いた。使用者の体内で生み出した内力を、他者に注ぎ込む事によって相手の内力を増幅させるという技である。
その名は「
練功をした事が無い者からすれば完全に眉唾な話として打ち捨てられそうな物であるが、内功修練も高い水準で続けてきた趙英には、それが手の届く物だという事が体感として分かる。
だが問題となるのは、増幅させる相手の方である。その者が本来は扱えない量の内力を強引に注ぎ込まれれば、一時的には能力が増幅されるが、その反動も大きくなるのである。
この点は、内功ではなく外功で考えれば分かりやすい。その者が本来は持ち上げられないほどの重量の物を、半ば強引なやり方で持てるようにした場合、筋肉や骨にどれだけの負荷がかかるかという話である。
数日間は動けなくなる事は確実。下手をすれば後遺症が残ったり再起不能になる可能性すらもある危険な技だった。
読み書きが出来ない事もあって、書庫の捜索に加われず、ひたすらに内功修練に励んでいた呼狐澹に、趙英は発見した九天神功の説明をする。
呼狐澹はそれを聞いて、何冲天を倒せるのならば、その後に武術が出来なくなっても構わないと笑って答えた。
そうして本人の意思確認をした後、冀城の反乱準備が整う前の今の内に試しておくべきだという意見で一致する。奥義書を見ながら数日間でコツを掴んだ趙英は、呼狐澹を呼び出してあくまでも軽めにという前提で始める事とした。
上半身の服を
これが通常の内力であれば
当然ながら奥義書を読んだだけの促成で、趙英自身も手探りであり、更には呼狐澹に与えてしまうであろう反動がどれほどの物か、何もかもが未知数である以上は、ある程度で抑えておかねばならない。
この辺であろうと見切って、その両掌を離した趙英は、呼狐澹に問う。
「どうだ?」
訊かれた呼狐澹は、静かに自身の両腕を挙げたり拳を握ったりしながら、まるで動きを試すような動作をした後に、ゆっくりと答えた。
「まだよくわからないけど、体が熱い」
とにかく動いてみない事にはどうしようもないという事で、二人は趙家を出て冀城の外に向かう事とした。あくまでも身体能力の高まりを試すという事で、馬を使わずに走る事とする。
「それじゃ、ついてこい」
どこか挑発するように口元を緩ませた趙英が駆け出すと、呼狐澹も笑みを浮かべてその背中を追った。
初めは常人でも充分に付いてこれる程度の速度であったが、次第にその速度を上げていく、冀城を出る頃には駿馬の速度すらも凌駕し、風を切るほどになっていたが、呼狐澹は息を切らせる事もなく趙英にピッタリと並走していた。
しばらくして林が見えてくると、趙英はおもむろに飛び上がった。木の枝を足場にして、林の木々を次々に飛び移っていく。
一瞬の戸惑いを見せた呼狐澹であったが、並走していた勢いのまま自身も飛び上がって枝を飛び移っていた。そんな様子に一番驚いているのが他でもない呼狐澹自身である。
一度の跳躍が十歩(十三メートル)を超える事もあるが、それすらも平然と出来てしまう。まるで草原を跳び回る
苦も無く林を抜けて岩場へと至った趙英は、そこで足を止めた。振り返ると呼狐澹は目を輝かせている。息が切れている様子は全くない。
「凄いよコレ!」
手応えを感じた趙英は、次に二本の枝を拾い上げ、一方を呼狐澹に手渡した。どちらもちょうど直剣ほどの長さがある。
「次はこいつだな。俺の攻撃を受け止めていけ」
そう言って趙英は、剣に見立てて木の枝を振るう。今度もまた最初は常人でも受けられる程度の速さである。当然ながら呼狐澹もそれを軽く受け流す。木の枝がぶつかる乾いた音が響いた。
趙英は続けて次の攻撃を繰り出して、呼狐澹はそれを更に受け流す。枝のぶつかる音が立て続けに響いて、次第にその音の間隔が短くなっていった。
いつしかその速度は、常人の目に留まらぬほどになっていたのだが、呼狐澹はそれを全て受け流す事が出来た。
先の戦いで趙英と何冲天の立ち合いを見ていた時、その高い動体視力のお陰で、太刀筋を見切る事は出来ていたというのが大きな点となっていた。
もしも常人であるなら、内力が上がって素早く動けても、相手の動きを見切るには慣れが必要で、その能力を使いこなせない結果になっていたであろう。更には内力を体内に巡らせる為の呼法を習得していなければ、そもそも扱う事すらも出来ないのだ。
だが呼狐澹は、呼法の基礎は習得していたが生み出せる内力が足りず、全ての太刀筋は見えていたが、体がついていかないという状態であったわけだ。つまり内力が上がりさえすれば、累乗的にその能力が引き出されるのも自明であったのだ。
九天神功の奥義書は、王異の書庫で偶然発見した物であったわけだが、やはり凡人であるならば、それは何の足しにもならない。
趙英と呼狐澹の二人であったからこそ、その効能を最大限に活用できたのである。
趙英の繰り出す神速の剣に対し、呼狐澹はほとんど同じ速度で振るう事が出来ていた。
これならいける――。
二人の心にそんな思いが芽生えた。そうした希望を抱いたままその日の訓練を終えたわけだが、問題となるのはその反動である。
翌朝から呼狐澹は寝床から起き上がる事すらも出来なくなっていた。酷い筋肉痛のような物で、体中の筋や神経は勿論、骨や内臓に至るまで、継続する鈍い痛みと、断続的にやって来る鋭い痛みに苦しむ事になった。
趙英が看病したのだが、ボロボロと涙を流して「触らないで」と、文字通りの泣き言を言い続けていた。
それは数日間も続き、その間は痛みでまともに眠る事も出来なかった呼狐澹であるが、幸いな事に後遺症も残らずに復帰する事が出来た。
本来は訓練によって高めるべき内功を、外からの強引な介入で増幅するような方法である。このような反動はあって当然とも言えた。だが趙英と同等の域に至るまで早くとも更に数年はかかる。
何冲天との決戦まで時間を掛けられない以上、苦肉の策としてこれ以上ない物を、彼らは見つける事が出来たのである。
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