幕間 反逆の老王

 りょう州、隴西ろうせい郡、枹罕ふかん――。


 馬超ばちょう韓遂かんすいの両軍が激突している隴西郡東部から西へ百里ほど離れた場所に、その城市まちはあった。


 そんな枹罕城の主は宋建そうけんと言う。その年齢は既に八十に迫り、金城きんじょうの韓遂よりも上という高齢であった。

 枹罕を拠点とする涼州豪族の一人であるが「河首平漢王かしゅへいかんおう」という王号を僭称せんしょうして、冕冠べんかん(皇帝や王が被る玉垂れが付いた冠)を被って玉座に座り、また配下の者たちを文武百官に据え、枹罕の城内をまるで独立国の宮中かのように振る舞っていた事は特筆すべき所だ。

 黄巾こうきんの乱で後漢朝廷の力が衰えた時期に始まって、およそ三十年の間、この涼州の辺境でずっとそれを続けていたのである。


 城市の規模からすれば不釣り合いなほどに増築された殿で、地元出身の者たちだけで構成された文武百官が揃って拱手し、杖を突いた白髪の老人にかしずいている様は、後世の視点からは勿論の事、同時代の者の目から見ても滑稽としか言いようが無かった。


「大将軍はおるか」


 玉座に座った老王が震える声で呼びかけると、跪いている百官の中央を通って黒い外套マントを翻した三十過ぎの男が歩み寄る。その顔に大きな傷痕があり、腰に宝剣をいたその姿は何冲天かちゅうてんであった。


「こちらに……」


 宋建の前で包拳した何冲天は、相変わらず感情を表に出さない無表情である。白髪の老王は、そんな彼に穏やかに問いかけた。


丞相じょうしょうの言っておったねずみはどうなった」

「撃退は致しましたが、生憎な事に砂嵐と重なりまして、死体は確認しておりませぬ」


 何冲天のその答えに、どこか不満そうに黙り込む宋建だったが、百官の最前列にいる、まだ十代と思われる若い武官が口を開く。


「陛下、撃退できた以上は充分な功と思います」


 その少年は名を宋延そうえんと言って、老王である宋建の曾孫に当たる。自身の息子も孫も若くして病死した事により、曾孫である宋延が王太子となっていた。

 この枹罕の滑稽な宮廷しか知らずに育った少年は、この光景を普通の事として受け入れており、心底から王太子殿下として生きている。ある意味では不憫であった。

 そんな曾孫を殊の外に可愛がっていた老王は、笑みを零してその言葉に大きく頷く。


 丁度その時に入り口が大きく開かれ、また別な黒衣の男が入ってきた事で、老王の表情が更に緩む。


「おぉ、丞相、戻ったか」


 そう呼ばれたのは、表情を崩さぬ何冲天とは対照的に、穏やかな笑みを常に浮かべている紅顔白髪の優男、鍾離灼しょうりしゃくである。

 玉座の前まで歩み寄った彼は、丁寧に拱手をすると笑みを浮かべたまま報告する。


「策は成りました。いささかの不穏要素がある為、どれほど乱れるかは未知数ではありますが、金城の韓遂と、西平せいへい閻行えんこうが分裂するのは、もはや時間の問題でしょう」


 その答えに満足そうに微笑んで頷く宋建。鍾離灼は表情を変えぬまま続ける。


「それと鼠の件、西平での策の邪魔になるやもと思い進言いたしましたが、どうやら先の涼州刺史の残党であったようですから、泳がせた方が乱も大きくなりましょう。その意味では、大将軍が討ち漏らしてくれて良かったのかもしれませんな。馬超軍への楔が弱まってしまう所でした」


 玉座の間に入って来る前から聞き耳を立てていた鍾離灼による何冲天擁護の発言であったが、討ち漏らした事を強調された何冲天は皮肉を言われたような不快感を覚えた。しかし八十に手が届く老王は、その言葉を聞いて穏やかに微笑んだ。


 枹罕という一県のみを領土とした一介の豪族に過ぎない宋建であったが、後漢朝廷から独立した王となる事をずっと夢に見ていた。天下の乱れに乗じ、領内に対して王を名乗ったはいいが、その国力の小ささから大きな軍事行動を起こせぬままに年齢を重ねてしまった。

 しかし情報操作、攪乱、触媒戦争などの計略を重ねてきた事で、自身の手を汚さず周囲の豪族たち、更には周辺の異民族をも立て続けに叛乱させる事に成功してきたのである。

 数年前によう州刺史の邯鄲商かんたんしょう武威ぶい太守の張猛ちょうもうに殺害された事件も、元から仲違いの激しかった両者の関係を知った宋建が、その双方に互いの暗殺計画があるという噂を流した事が発端だった。

 更には先年の潼関どうかんの戦いの発端となった関中軍閥の決起も、曹操そうそう軍出兵に対する怪しげな噂が発端となっていた。当事者たちは全く気付いていないが、それも元を遡れば宋建によって最初の火が放たれていたのだ。

 涼州が乱れれば乱れるほど、宋建自身は無傷のまま相対的に国力が増す事になるわけである。


 何冲天、鍾離灼の両者ともに、世間から姿を隠すかのように流れ者として生きていた所、その能力を買われて宋建に召し抱えられていた。

 俸禄と衣食住を提供され、それが例え紛い物と言えど高い立場で生きる事が出来る枹罕城の暮らしは、少なくとも日陰者として放浪するよりはマシであるという理由から、内心では辟易しつつも老王の宮廷趣味に双方とも付き合っているわけである。


 鍾離灼は再び深く拱手をすると、宋建に新たな進言をした。


「陛下、実を言いますと大将軍には別の鼠を始末してもらいたいと思っております。こちらの鼠は厄介でして、せっかく乱した涼州をまとめ上げてしまう可能性があります」


 その言葉に、宋建は元より隣にいた何冲天も鍾離灼に視線を送った。宋建はその老いた喉から絞り出すように訊き返す。


「その者の名は……?」

「現在、閻行の下にいる男、殷厭世いんえんせい……」






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