第四十集 陰謀の分水嶺
その頃の
夫婦間の仲が冷え切っていた
韓遂と閻行の水面下での闘争を知っている人間であれば、こうした葬儀の様子も政争の延長として映るであろう。しかし大部分の兵や民はそうではない。特に派閥闘争に関わらない人間というのは、そうした部分に興味が無いからこそである。
それゆえ西都城内の大部分を占める中立派への印象操作という点に関しては絶大な効果を上げたと言ってよかった。
そんな葬儀も一段落し、ようやく準備から解放された緑風子は、政庁の裏庭に一人佇んでいた。
既に真夜中、住人や政庁の役人たちも寝静まっている中、虫の声だけが響いている。風は穏やかながら空には雲が多く、月や星も見え隠れする夜の闇を、数本の
「そろそろ来るとは思ったけど、君だったか」
緑風子が夜の闇に向かって話しかけると、その闇の中から人影が現れる。
「さすがに気づくか……」
そう呟いた黒衣の刺客に、笑みを崩さぬ道士は続けて問う。
「僕を殺しに来たんだろう。あいつに頼まれてさ」
「ならば話が早い……」
そう言うと同時に、何冲天は腰に
今にも斬りかかってきそうな黒衣の刺客に、緑風子は笑みを崩さずに問いかける。
「君たちが仕えているのは、
姿を消した
黒幕という物は正体を知られないからこそ黒幕であり続けられるわけだが、もしそれが知られたとなれば失態どころでは済まされない。
「答えるとでも思ったか……?」
そう返した何冲天であったが、その表情の機微、返答までの間、そして話を逸らそうとする返しなど、その全ての要素から緑風子は相手の内心を手に取る様に把握できていた。
「いいや、答えるわけはないよね。……でも、答えはもう貰ったよ」
微笑みを絶やす事なく挑発的な言動をした緑風子に、その心が乱される何冲天。鍾離灼から同門だと聞いていたが、確かにあいつと同じだと歯噛みした。
そして絶対にここで逃がすわけにはいかないと改めて決意する。
そんな何冲天が見せた一瞬の隙をついて、笑みを絶やさぬまま政庁内に駆け込んだ緑風子と、即座に追いかける何冲天。
真夜中に灯りが落とされた政庁の内部は非常に暗く、外から月明かりが差し込む窓際を除けば一寸先も見えない闇であった。その月明かりすら雲に隠れれば、完全な暗闇となってしまう。
足音を立てぬ様に動けば、ほとんどその居場所は分からず、逃げる緑風子の方が有利と言える。
だか何冲天もまた刺客として長年の心得がある者。視覚と聴覚が塞がれていても、感覚を研ぎ澄ませば、相手のわずかな気配を感知する能力はあった。
闇の中で、わずかに動く空気の流れだけを頼りに、自身もまた気配を隠しながら静かに追いかけていく何冲天。
すぐ近くにいる――。
その気配を察している何冲天であったが、緑風子もまた闇に紛れて正確な位置を悟らせぬ様に動いている。
あまり時間をかけるわけにはいかない。何しろ相手は何冲天と戦う必要が無いのだ。やり過ごして逃げさえすればいい。そして黒幕の名を他の者に流されてしまえば、全てがご破算となる。
この状況で追い詰められているのは、むしろ何冲天の方であった。
だがここが敵地である事で何冲天の側も、その攻め手に遠慮が無かった。獄焔の刃が闇の中で振るわれ、机や書架など、政庁に置かれている様々な物を次々と切り倒し、周囲に散乱させていく。
迂闊に近寄れば、その赤い刃の餌食となってしまう為、何冲天から距離を取らざるを得ない。すなわち移動はしなければならないのだ。
こうなると周囲に隠れている緑風子としても足音を立てずにいる事が難しくなってくる。
カタリと音がした。床に散乱した木片を蹴り飛ばしてしまった小さな音。それを聞き逃す何冲天では無かった。
「そこだ!」
一瞬で踏み込んだ何冲天。その手に持った獄焔の刃が音を立てた対象を穿つ。人体を刺し貫いた確かな手応えがあった。
「やられたね……、どうにも……」
その声は確かに先ほど聞いた道士の物であった。何冲天は不敵な笑みを浮かべると、獲物の脈が止まった事を確かめて剣を引き抜いた。
建物の外が騒がしくなっている。先ほど暴れた事で巡回の兵士に気づかれたようだった。長居は無用とばかりに獄焔を鞘に収め
兵士たちの騒ぎを聞きつけて、閻行も私邸から起き出してくると、兵士たちに何事かと問いただした。どうやら真夜中に侵入者があったらしく、政庁の中が荒らされているらしかった。
兵士たちが駆けつけた時には、そこに誰の姿も無かったという事だ。
「お騒がせして申し訳ありませんね」
その声は政庁の屋根の上から発せられていた。閻行を始め周囲の兵士たちが松明をかざして上を見上げれば、屋根の上に緑風子がいつもの笑みを浮かべながら佇んでいた。
彼は何冲天に追われた事で、闇に紛れて逃げる事にしたのだが、ただ逃げるだけではいつまでも追われるだろうと思い至った。しかし剣と殺しを生業にしている相手を返り討ちにする事は流石に出来ない。正面から挑むのは愚の骨頂。となれば相手を騙すしか手はない。
兵士たちが調べると、荒らされた政庁の内部に数枚の霊符が落ちており、その内の一枚が切り裂かれている。これらは緑風子の配置した物で、触れる事も出来る幻影を生み出す術式であった。
つまり緑風子を模した幻影を何冲天に斬らせ、仕留めたと思わせたのだ。
幻影と言っても、特定範囲に配置した霊符の中でだけ有効な物であり、決して万能ではない。
だが何冲天が気配だけで相手の位置を探す能力があった事で、下手に灯りを着けなかった事が大きかった。それにより緑風子が周囲に霊符を撒いていた事に気づかれる事が無かったわけだ。
何冲天は文字通り、彼の術中にはまってくれたというわけである。
いずれにしろこれで黒幕の正体が枹罕の宋建である事の確証が得られ、しかも彼が死んだと思った事により時間の猶予さえ生まれる事になった。
確かにこの夜の時点で緑風子が倒れれば、黒幕の正体も分からぬまま
しかし鍾離灼が緑風子を恐れて何冲天を送り込んだ、正にその事が逆に彼らの致命傷となった。
この夜の対峙こそ、この後の戦いに於ける分水嶺となったのである。
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