第二十五集 開戦の狼煙
近くで寝ていた
一見して周囲に異常はないが、呼狐澹の野性的な勘、五感の鋭さに一目置いている趙英は、自分には知覚できない異常に気付いたのかと思い、兵たちの眠りを妨げぬような小声で訊いた。
「どうした、
「表から大勢の足音が聞こえて、西に少し離れた所で止まった」
そう言った呼狐澹の顔は真剣そのもので、出発前は余程の事が無ければ起こらないと踏んでいた流血沙汰の気配がした。
趙英が表に様子を見に行くように頼むと呼狐澹は黙って頷き、弓を手に持って静かに道観の外に出る。その間に趙英は父を揺り起こし、手短に状況を説明した。
「
他の兵たちも起こそうかと話をしている二人に対しそう話しかけたのは
趙英が話し出そうとした所で、表から呼狐澹の叫びが聞こえる。
「敵襲!」
短く端的なその一言で、問答の必要もなく状況を理解した龐徳はすぐさま外に向かう。寝息を立てていた兵たちが飛び起きて混乱している姿を尻目に、趙英もまた剣を手に取って表に駆け出す。
表に出た趙英の目に、夜空を走る大量の流星が飛び込んできた。
一瞬見惚れてしまったが、自身に迫って来るそれが火矢であると気づき、間一髪で剣を振り抜いて打ち払う趙英。
何とか傷を負わずに済んだが、周囲の地面や道観の屋根に大量の火矢が打ち込まれ燃え上がっていた。
道観の入り口から出てこようとする兵たちを見て、第二射を警戒した龐徳は外へ出るなと制止する。
「澹兒! 状況は!」
土壁の上に立っている呼狐澹は夜の闇の中、月明かりと敵の松明で正確な位置を確認し、敵の位置を指し示す。
「向こうへ一里半! 弓兵が二、三百人!」
即座に駆け出そうとした趙英を、龐徳が肩を掴んで制止する。
「
そう言った龐徳は、趙英の言葉を待つ事もなく戟を手に馬に跨ると、呼狐澹の指した方角へと駆けだした。
「何考えてるんだ、あいつ……!」
などと思わず声が漏れる趙英であったが、自分も同じ事をしようとしていた以上、言えた義理ではない。ここは龐徳の腕を見極める機会だと割り切った。
「澹兒、龐将軍の援護を。しっかり見ておいてくれ」
趙英の意図を汲んだ呼狐澹は笑みを零して頷いた。
「皆、火を消すんだ!」
そう言って指示を出した趙英は、兵と共に消火をしつつ敵の襲撃に警戒した。
馬の
弓兵たちの標的が向かってくる龐徳ただ一騎に絞られるも、見事な馬術で馬を蛇行させる事により、雨のように降り注ぐ矢を避けていく。
希に馬が避けきれぬ矢が飛んできた際には、戟を振るって正確に叩き落していた。
数回の射撃が繰り返されたが、弓兵たちが矢をつがえる度にその距離は縮まっていき、遂には数十歩の距離まで来た所で、龐徳は大地を振るわせるような雄叫びを上げる。そして敵兵がその声に怯んだ隙に敵陣に突入し次々と切り伏せていった。
弓から槍に持ち替えた兵たちは果敢にも斬りかかって行くが、
周囲に旋風を起こすほど速く重い戟が振るわれる度に血飛沫が吹きあがる。一振りごとに確実に命が刈り取られていく状況に、周囲の兵たちは次々に戦意を失っていく。
「何をしている! 敵はただ一騎だぞ!」
そう叫んだが敵指揮官の運の尽きであった。
その言葉に敵将の位置を見定めた龐徳が向きを変え一直線に突撃してくる。
途上の兵たちは恐怖に立ち
目の前に迫る鬼神の如き猛将に、最期の言葉を発する暇すらなく、敵指揮官の首が飛んだ。
「敵将、討ち取ったりぃぃいい!!」
敵陣は元より、趙英らのいる道観にまで響かんばかりの勝鬨を上げた龐徳は、戟を大きく振って血を払いながら周囲の敵兵を睨みつけた。
その鎧に大量の返り血を浴び、周囲に血まみれの死体が転がる中、呼吸ひとつ乱さずに冷たい殺気を周囲に撒き散らす龐徳。
もはや敵兵たちに戦いを続ける士気は無く、悲鳴を上げながら散り散りに逃げて行く。あくまでも攻撃の手を止めさせる事が目的の突撃である為、これ以上の深追いは無用であると判断し、龐徳は追撃をせずに見送った。
「凄ぇ……」
そんな龐徳の戦いぶりを土壁の上から見ていた呼狐澹は、思わず感嘆の声を漏らした。
道観の方はと言えば、近くに水場が無い事と空気が乾いていた事が災いして屋根に燃え広がっている。炎の浸食を止める事は出来ないが、逃げる時間は充分にあった為、荷物をまとめて全員で表に避難する事は出来、幸いな事に負傷者は誰もいなかった。
趙英らを始め兵たちが道観の庭に集まっている所に、龐徳が戻って来る。
「皆無事か?」
下馬しながらの龐徳の問いに、兵たちが口々に声を上げて答える。
その血まみれの鎧が戦いの激しさを物語っていたが、手傷を負った様子も、疲労している様子もない龐徳に、趙英は改めてその実力を実感した。
そんな龐徳が、戟と共に握っていた物を地面に投げる。それは敵部隊が持っていたと思われる軍旗であった。そこには「韓」の文字が大きく書かれている。
韓遂の軍である事を示す軍旗であった。
兵たちは韓遂の罠だったのかと口々に叫ぶが、趙昂が
「しかし、おかしいとは思いませぬか。この会談に馬将軍自身が出向かれるならまだしも、あくまで我ら
仮に和平が口実で開戦を望むにしても、我らを討ったとて利があるとは思えませぬが……」
その意見に兵からも同意の声が出るも、龐徳はしばし考え込んだ後に口を開く。
「其方の言う通り、我らは使いの者に過ぎぬ。
龐徳はそう断じると話を打ち切って、引き上げの準備を始めさせた。
慌ただしく荷物をまとめ直す兵たちの中で、趙昂は苦虫を噛み潰したような表情で首を振った。その様子を見た趙英と呼狐澹も顔を見合わせる。
この報告を聞いた馬超がどのような反応を示すか、考えるまでもない事だった。
冀城の陥落から
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