第二十二集 いつか来る日の為に

士朧しろう南鄭なんていに!?」


 趙英ちょうえいは思わず声を張り上げた。

 それは馬超ばちょうから趙昂ちょうこうへの要請であった。馬超の長男である馬秋ばしゅうが、張魯ちょうろの治める漢中かんちゅうの大都市・南鄭に学びに行くので、趙昂の嫡子である趙月ちょうげつを供とさせたいというのである。馬秋と趙月は同世代であり、共に学ぶ良い機会であると。

 しかし現在の張魯は反曹操そうそうで利害の一致した馬超の同盟者であり、ていの良い人質であると誰の目にも明らかであった。


「断れないのか、それ」


 怒りを滲ませた趙英の言葉に、王異おういが即座に、淡々と答える。


「ここで断っては馬超に本心を晒すも同じ。それでは城が陥落してから今日までの忍従が水泡に帰します。そんな事すら分からないのですか?」


 己の息子が人質に取られるというのに冷徹に言い放ち、更に余計な挑発まで交える母に反感を覚えつつも、その言わんとしている事は趙英とて理解できる。事は趙家だけの問題ではない。この冀城の、更に言えば涼州全体の今後を左右する局面である。

 そんな趙英を見かね、当の本人である趙月が笑顔を見せた。


「大丈夫ですよ、姉上。殺されると決まったわけではありませんし、外で学ぶ事が出来るというのもまた事実です」


 趙月本人の意思が示された時点で、それまで黙っていた趙昂が大きく頷いた。


「それでいい。だが遠くない内にが来る。それまでは可能な限り話を合わせ、必要とあらば馬超軍に降るのだ」

「はい!」


 まだ十二歳とは思えぬ聡明さを見せる趙月は、父に拱手きょうしゅをして力強く応えた。

 こうして趙昂の嫡子・趙月は、馬超の長子・馬秋と共に漢中へと向かう事となったのである。


 趙英は胸にわだかまりを抱えたまま、包拳ほうけんをして部屋を辞した。どんなに屈辱的であろうと現状に於いては馬超に恭順の意を示すしか手が無いのも事実である。それは趙家の全員、いや投降した冀城の役人全員の総意であったろう。


 趙英も他の手を考えなかったわけではない。例えば藍田らんでん梁興りょうこうに使った手である。適当な理由を付けて単身で近づき、馬超を暗殺せしめる……。

 だが馬超は梁興などとは別格の猛将だ。その武名は関中かんちゅうのみならず涼州にまで轟いており、趙英も敵わぬやも知れなかった。しかも今この現状で暗殺を警戒していないわけはない。

 もし失敗すれば、趙英自身が死ぬ事は勿論の事、それこそ族誅ぞくちゅう(一族全員皆殺し)の口実になってしまう。それを考えれば迂闊な手段を取る事は出来なかった。




 趙英と趙月が部屋から去った後、趙昂は横に佇む妻に訊ねる。


「しかし本当に良いのか? 或いは士朧は……」


 夫の煮え切らない言葉に溜息を吐くと、王異は毅然とした口調で言い放った。


「あなたはそれでも忠孝を旨とする漢朝の臣ですか? 君父くんぷの仇を報ずる為ならば、己が首とて惜しくはないはずでしょう。子の命を惜しんで義を果たせぬとならば後世に残る恥辱となります」


 趙昂はその言葉に腹を決めた。

 そして同時に、この場に趙英がいる時でなくてよかったと心底から思った。

 儒教倫理の、特に命を軽々しく捨てる事を極端に嫌う趙英にとって、それは最も嫌悪する言葉であると趙昂はよく分かっていたからだ。




 不機嫌なまま庭へと出た趙英は、笑顔で駆けよって来る呼狐澹ここたんに一瞬戸惑った。興奮した様子でまくし立てるその内容を聞いてみれば、呼法のコツを掴めたという。

 後ろで微笑んだまま目配せしてくる緑風子りょくふうしの様子を見ると、どうやら何かしらの後押しがあったようだと察する事が出来た。


 正直な話、いつまでも腹を立てていても仕方がないと自分でも理解していた趙英は、努めて笑顔で呼狐澹を褒めてやった。そして呼狐澹に対して弟・趙月を無意識に重ねている自分を自覚し、これでは二人に失礼だなと自嘲もした。


「だがな澹兒たんじ、内力を生み出すコツは掴めても、それはまだ全身に散ってしてしまってる状態なんだ。攻撃にしろ防御にしろ、その内力を狙った瞬間に体の一部分に集中させるって事を覚えなきゃならない。

 更に言うと、その呼法をもっと自分なりに効率化して、内力をより大きく生み出すという修練も続けなきゃならない。

 この二つは俺だって勿論の事だが、到達点なんてない。内功を学ぶ者にとって生涯高め続ける物なんだよ。要するに、本当に大変なのはここからだ」


 呼狐澹は同じ事を緑風子からも言われ、半ば覚悟は決まっていた事もあり、笑顔のまま大きく頷いた。


「でも集中させるって、具体的にどういう練習をしたらいいんだろ」


 そう問いを投げてくる呼狐澹に、趙英はかつて自分が行った訓練に思いを馳せながら庭を見回すと、庭の隅に生えている低木が目に入った。

 少し待っていろと言って家の中に入った趙英は、細い撚糸よりいとを持ってくる。両手に握って勢いよく引っ張るだけで千切れる程度の物だ。それを地面に垂れ下がるように低木の枝に結び付けると、呼狐澹の方に振り向く趙英。


「これを手刀で切れるか?」


 呼狐澹は意気揚々と近づいて、てのひらを伸ばして固定し力強く薙ぎ払う。しかし撚糸は手刀が当たっても共に動いてしまい、ただ大きく揺れるだけで全く切れる様子が無い。

 最初は誰でもこうなると分かっていた趙英は、微笑みながら呼狐澹を制止し、撚糸の揺れが収まるのを待って、自らが手本を見せた。


 趙英は手刀ではなく、人差し指の一本だけ。それを音もなく払っただけに見えた。

 しかしその指が通過した途端、撚糸は全く揺れる事も無く、垂れ下がった先端がポトリと落ちたのである。


 動きそのものは、傍から見れば武術の修練と言われても納得できないほど地味である。ただ無作為にどこかを指差しただけのようにも見えた。しかしその指先には、極限の内力が込められているのである。


 外功……つまり筋力や、勢いに頼っては、先ほど呼狐澹がやったように撚糸そのものが動いてしまうだけで全く切る事は出来ない。刃物ではなく素手であるから、切れ味という物も本来はない。

 撚糸に当たる瞬間、その打点に、正確に内力を集中できた時のみ、撚糸を切る事が出来るという修練方法である。


 趙英は短くなってしまった撚糸を撤去して新しい撚糸を結び付けると、呼狐澹に振り返って涼しい顔で言い放つ。


「次はこれを出来るようにするんだ」


 非常に難しいという事を体感で理解している呼狐澹であったが、呼法の時も今回も、こうして明確に目標を与えてくれる師がいる事を本当に感謝した。独力では現在の場所まですら全く辿り着けなかったであろうと分かっていたからだ。


 決意を新たに力強く頷いた呼狐澹は、いつか来る報仇ほうきゅうの日に向けて修練を続けるのであった。





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