第二十一集 小さな始まり
「主君の後を追いたいならば、その望み叶えてやる」
馬超はそう言って、自分を非難をした者たちを次々に斬首に処した。
だが表向きは馬超に帰順していても、彼らの内には殺害された韋康への忠義があった。ここで斬首されて義に殉じたところで、この地を馬超に明け渡してしまった結果は変わらない。今は我が世の春を謳歌する馬超に対し、復讐の機会を虎視眈々と狙っていた。
馬超もまた役人たち全員が素直に帰順したとは考えていなかった。心から恭順した者と、爪を隠している者とを何とかして見分けてやろうと、様々な事を陰に陽に仕掛けていたのである。
趙英ら一行が趙家に到着してすぐの事。趙家の
政庁から策を打ってきたであろう馬超と、家の中で対策を議論しているであろう趙家の面々を思いながら、この後の展開を考えると今はまだ臣従を装い続けるしかないだろうと緑風子は結論付けて溜息を吐いた。
そんな彼を尻目に、数分おきに息を荒げている呼狐澹に気づく緑風子。
「
緑風子のその質問に、息も絶え絶えに答える呼狐澹。
「そうそう、
「その様子だと、まだまだコツが掴めていないんじゃないかな」
呼狐澹は図星を突かれ、どこか決まりが悪そうに黙って頷く。その暖かくも上から見下されているような言い方に、少し気を悪くした呼狐澹が言う。
「緑風子って
「あるよ」
皮肉で言い放っただけの放言を笑顔のまま肯定されて、目を丸くする呼狐澹。次第に希望の光がその瞳に宿って来るのを見て取った緑風子が一言付け加える。
「いやまぁ、あるにはあるんだけど……、死ぬほど苦しい。下手をすれば死ぬ」
その言葉に一瞬だけ戸惑いを見せるも、すぐにいつもの笑みを零す。
「オレは試してみたいよ、それ!」
緑風子が言うには、本来は使う事のない肉体のある特定の部分だけに意識を向ける事こそが内功の神髄。呼法はその入り口に過ぎない。
例えば、腕も他の指も動かさずに人差し指だけを動かすという動作を想像してみると分かり易い。生まれたばかりの赤子はほとんどそれが出来ない。だが毎日毎日無意識にその修練を重ね、物心付く頃には出来るようになっているだけで、簡単なようでいて実はかなり神経を複雑に使っているのだ。
肉体の使っていない部分を使えるようにするというのは、まさにそれと同様の事なのだ。最初は誰でも腕、そして他の指と連動してしまい、そこだけに意識を集中する事は出来ないのである。
緑風子の行う点穴とは、この例えで言うならば、人差し指だけを残して他の全ての神経を麻痺させる。そして対象となる人差し指の神経だけを動かさない限り、指は全く動かない、というような物だった。
これが人差し指の話ならば腕が動かないというだけの簡単な話であるが、呼法となれば話は別だ。
体を動かす事も封じ、正確な呼法を行わなければ普通に呼吸する事も出来なくなるという事だ。だが呼法が出来たその瞬間、全身に内力が行きわたって封じられた穴道が開き、自然と麻痺も解けるという仕組みだ。しかし下手をすればそのまま動けずに窒息死する可能性もある。
呼狐澹はしばし考えた。呼法の習得など入り口に過ぎない。そこにすら辿りつけぬままでは、いつまで経っても仇討ちの願いなど叶わない。
今の腕で
「いいだろう」
静かに言い放った緑風子が、竹杖を素早く突き出して呼狐澹の経絡を的確に突いていく。直立したまま動く事が出来なくなる呼狐澹。
緑風子は立ち上がり直立不動のままの呼狐澹に歩み寄る。
「では、いくぞ……」
呼狐澹の耳元でそういった緑風子が、手を添えるようにして首筋の経絡を静かに突いた。
まるで気道が塞がれたかのように呼吸が出来なくなった呼狐澹は、目を瞑って趙英に教わったように意識を集中させる。わずかにだが呼吸が出来る。まるで細い細い管のみで水中から呼吸をしているかのように。この細い管を押し拡げるように意識を集中させねばならない。余計な事を考えると、即座にその管は塞がってしまい、全く呼吸が出来なくなる。
だが、集中すべき場所以外が全く動かなくなるというのは、確かに凄まじい利点であった。素人と言うのは、そもそもその集中すべき場所が分からないのだから。
とはいえ、わずかな管と表現した通り、次第に酸素が足りなくなるのも自明である。動く事も喋る事も出来ぬまま、目を瞑った顔が見る間に赤くなっていく。当然ながら思考する事も難しくなっていく。
そろそろ限界か……。
緑風子はそう思った。
窒息死すると脅かしはしたが、実際には限界が来る前に点穴を解いてやるつもりであった。だがあえてそれを教えず死を匂わせたのは、呼狐澹の覚悟を試す為である。命を懸けるくらいの気概が無くては、何度やった所で時間の無駄であるからだ。かと言って一回で成功するとも思っていなかった。一度経験させる事で、件の集中すべき場所を体感できれば充分だと思っていたのである。
一方の呼狐澹は、次第に限界が近づく中で静かに奮闘していた。もし点穴で体の動きを封じられていなければ、既に
緑風子が立ち上がって呼狐澹の点穴を解こうとした時である。呼狐澹は正確な場所、正確な力の緩急、正確な力の向きが合致する瞬間を捉え、それを逃がさなかった。
細い管がメリメリと音を立てて拡げられる感覚を覚え、酸欠状態だった体と脳に、一気に空気が流れ込んでいく。同時に全身の血管を通して、活力としか表現できない物が行きわたり、封じられていた穴道が解かれた。
それはまるで、腕力が爆発的に上がって全身を縛っていた縄を引きちぎるような、そんな感覚である。
息を荒げてその場でへたり込む呼狐澹を、驚きの視線で見つめる緑風子。呼狐澹も呼吸を整えながら緑風子を見上げ、互いに笑い合った。
「おめでとう。これでようやく、入り口に来たね」
緑風子のその言葉に、改めて先の長さを実感しつつ、呼狐澹は地面に大の字で倒れ込むのだった。
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